鶴田吾郎

没年月日:1969/01/06
分野:, (洋)

 日展会員、日本山林美術協会代表の洋画家、鶴田吾郎(号、玄山人)は、1月6日午後0時35分、胃ガンのため東京信濃町・慶応病院で死去した。享年78才であった。鶴田吾郎は、明治23年(1890)東京牛込区に生まれ、早稲田中学校を中退し、倉田白羊について洋画を学び、同38年赤坂溜池の白馬会研究所に入所、翌39年太平洋画会研究所に移り、中村不折に師事した。大正元年から大正5年までの間に、朝鮮、大連、ハルピンなどに滞在、帰国後は、中村彝、中原悌次郎、堀進二らと交友、大正9年第二回帝展に「盲目のエロシェンコ像」を出品、以後帝展、文展、日展で活躍した。太平洋戦争中は、戦争記録画を描いて知られ、特に「神兵、パレンバンに降下す」は著名。戦後は国内の各地を旅行して国立公園を描き、日本国立公園30点を完成させた。
年譜
明治23(1890)年 7月8日、東京市牛込区に生まれる。
明治36年 倉田白羊に学ぶ。
明治38年 赤坂溜池の白馬会洋画研究所に入所。
明治39年 太平洋画会研究所に移り、中村不折に学ぶ。
明治43年 味の素株式会社広告部に入社。
大正1年 京城日報社に入社、京城にて絵画部を担当。
大正4年 川端童子とスケッチ倶楽部をつくり、通信教育の講義録を担当する。
大正6~9年 大連、ハルピン、シベリアに滞在する。
大正9年 帰国。第2回帝展に「盲目のエロシェンコ像」を出品する。以後、官展に出品。
昭和3年 第11回帝展に「黒潮に生きる男達」を出品する。
昭和5年 シベリア経由でヨーロッパ旅行、フィンランド、スウェーデン、ドイツ、フランスなどを約10ヶ月歴遊する。
昭和17年 陸海軍の依嘱をうけて従軍。この年、パレンバンの落下傘部隊を描くため、スマトラへ行く。
昭和21年 自宅の画室を開放して「アカデミー美術研究所」を開く。
昭和27年 日本国立公園30点の制作に着手する。
昭和30年 日本山林美術協会を創立する。
昭和37年 インドに旅行、仏跡、ヒマラヤなどを描く。
昭和40年 中国対外文化協会の招きにより中国に旅行。
昭和44年 1月6日、慶応病院において死去。
日展出品作品略年譜
昭和26年「朝囀」、同27年「下北半島の杭夫達」、同28年「コンストラクション」、同29年「鷹の巣の雪山」、同30年「ダム・コンストラクション(佐久間)」、同31年「熔鉱炉」、同32年「吾道を行く人々」、同33年「練習中の大交響楽団」、同34年「鳴動」、同35年「颱風」、同36年「夜明け」、同37年「凝視」、同38年「ベナレスの聖牛」、同39年「野鶴」、同40年「存在」、同41年「遶行」、同42年「初転法輪」、同43年「雪後快晴」。

出 典:『日本美術年鑑』昭和45年版(79-80頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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