山本敬輔

没年月日:1963/02/08
分野:, (洋)

二科会理事山本敬輔は2月8日、せきつい炎、肝硬変のため兵庫県姫路市の阿保病院で逝去した。享年51歳。山本敬輔は明治44年12月2日姫路市で生れた。家は代々姫路城主の御殿医をつとめ、彼もまた、初めは家業の外科医となるつもりで姫路高等学校に学んだが、昭和4年、画家を志望して中途退学し、藤川勇造をたよって上京、昭和9年第21回二科会展に「狂態」が初入選となり画家としての第一歩を踏み出した。超現実主義が画界を賑わした時代で「狂態」も超現実風の作品であった。そのご、前衛画家の集団、黒色会に加わり、次で斉藤義重、広幡憲等と絶対象派協会を設立する頃は、抽象的傾向へ移り「アブストレーA」のような作品から更にモンドリアンの影響を強くうけて、方形の構成による「V-X-38.5」などを制作発表している。絶対象派協会は、まもなく解散したが、13年11月に、二科会新傾向作家とともに九室会を創立し、二科会展の会場の第九室で前衛活動をつづけていった。然し、戦争の拡大によって14年8月には召集をうけ、18年に一度復員したものの再び召集され、昭和20年終戦迄兵役に服していた。戦後、20年二科会再建とともに会員に推され、23年第33回二科会展で「ヒロシマ」三部作で会員努力賞をうけた。この頃は、他にも「戦争と平和」「殉教」など、思想的テーマを好み、表現にも、ピカソの「ゲルニカ」などの影響をつよく示す作品が描かれていった。26年には昴会を、荒井竜男、桂ユキ子、斎藤義重末松正樹らと創立し、翌27年第1回展をタケミヤで開いている。然し、そのごはピカソの影響を離れ、再び純粋造型の世界へ移り、又、昭和35年頃にはアンフォルメルの仕事を試みるなど、晩年まで前衛的な活動をつづけていた作家であった。
作品略年譜
昭和9年 21回二科会展 「狂態」
昭和10年 22回二科会展 「馬」
昭和12年 24回二科会展 「100-X-37」
昭和13年 25回二科会展 「100-X-86」
昭和14年 26回二科会展 「100-X-39」
昭和21年 31回二科会展 「花の風景」
昭和23年 33回二科会展 「ヒロシマ」
昭和24年 34回二科会展 「戦争と平和」
昭和25年 35回二科会展 「北海道」
昭和26年 36回二科会展 「殉教者」
昭和27年 37回二科会展 「狭土」「赫土」、日本国際美術展「父と子」「審判」
昭和28年 38回二科会展 「作品」(1、2、3)
昭和29年 第1回現代日本美術展 「芽生え」「連鎖」
昭和30年 40回二科会展 「牙」「決定された地点」日本国際美術展「吹溜り」
昭和31年 41回二科会展 「壁」、現代日本美術展「穴のあいたオールマイテイ」
昭和32年 日本国際美術展 「ウーッ!」
昭和33年 43回二科会展 「像OP58の2」
昭和34年 44回二科会展 「作品59」(2、3)、日本国際美術展「作品」
昭和35年 45回二科会展 「時点(A、B)」「間隙」、現代日本美術展「赤の作品」「青の作品」
昭和36年 46回二科会展 「作品61」(A、B)

出 典:『日本美術年鑑』昭和39年版(125-126頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「山本敬輔」『日本美術年鑑』昭和39年版(125-126頁)
例)「山本敬輔 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9144.html(閲覧日 2024-04-20)

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