青柳暢夫

没年月日:1962/09/10
分野:, (洋)

 独立美術協会会員、青柳暢夫は9月10日都内杉並区の自宅で脳軟化症のため死去した。享年53才。明治41年(1907)福岡市に青柳茂の二男に生れ、県立福岡中学時代に美術教師杉江春男に絵の才能を認められた。大正13年(1924)には上京して片多徳郎に師事し、大正15年(1926)には川端画学校に入る。昭和4年(1929)から清水登之に師事し、また帝国美術学校にも入学した。1931年清水登之もその創立会員となった独立美術協会展が開かれ、これに「庭」と「荻窪風景」を出品した。会の主調であるフォーヴィスムの影響をうけ、1930年代の後半には、スュールレアリスムへの動きが有機性をおびた形体感の中にいくらか感じられはするが、それは昭和15年(1940)に結婚した河村春をモデルとしてその後の3、4年にわたって描かれた婦人像にみられる柔軟な心理のかげりをみせる作品の中に連なってゆく。戦後1950年代の前半までは静物画が多く、形体のキュービスティックな構成を探求している。1950年代の後半に再び風景画が現われると、硬化した樹木が荒々しい力で前面にはだかり、つぎには建築や風景の断片の凝集した画面が、やや騒がしいがうっ積した意欲を示すようになった。斗酒を辞さなかった頑健な体が病を知ってからは、さらに以前の様式化した型の集積から解放され、もう一歩新らしい内面的な画境に進むことを予想させていたときに倒れたのである。
略年譜
明治40年 福岡市に生れる
昭和6年 独立1回展に「庭」「荻窪風景」出品。文房堂で1回個展を開く。河村春と福岡で知る。
昭和7年 独立2回展に「落合風景」「郊外の道」外品。大連、新京、ハルピンを旅行。
昭和8年 独立3回展に「平尾風景」「樫並木」出品。福岡独立作品家協会および研究所を友人とつくる。
昭和9年 独立4回展に「山と岩」「密柑山」「女」出品。
昭和10年 独立5回展に「胡爪」「残雪」「蓮鷺」出品。
昭和11年 独立6回展に「白装」「建築現場」出品。
昭和12年 独立7回展に「雪景」「姉妹」出品。
昭和13年 独立8回展に「風景A」「風景B」出品。
昭和14年 独立9回展に「月の岩」「海浜風景」出品。独立賞受賞。
昭和15年 独立10回展に「少女と夫」「破船と岩」出品。河村春と結婚。
昭和16年 独立11回展「野の少女」「黍と女」「小鳥と母娘」出品。
昭和17年 独立12回展「秋の少女」「薪割」「牧場の人」出品。善福寺池畔にアトリエを作り住む。
昭和18年 独立13回展「小猫」「花の実」出品。
昭和19年 独立14回展「出演の前」「かえりを待つ子」
昭和20年 栃木県下都賀郡に疎開。
昭和21年 日動画廊で栃木風景を主とした個展開催。独立会員となる。
昭和22年 独立15回展4点出品東京のアトリエに戻る。
昭和23年 独立16回展「静物」2点「風景」3点出品。児島善三郎と北海道旅行
昭和24年 独立17回展「干魚」「静物」出品。岩田屋で夫妻展開催。
昭和25年 独立18回展「壷とさかな」「魚」2点
昭和26年 独立19回展「裸婦」3点 北海道旅行
昭和27年 独立20回展「木の実と魚」「黒い壺と魚」「ひまわりと魚」
昭和28年 独立21回展「静物」3点
昭和29年 独立22回展「壺のある静物」「果物篭の静物」第1回現代日本美術展出品「作品(花)」「作品(干魚)」
昭和30年 独立23回展「樹」第3回日本国際美術展出品。「静物」「どくだみの花」。資生堂で個展開催
昭和31年 独立24回展「さぼてんのある丘」「湖畔の静物」2回現代日本美術展「かたつむりのいる風景」「小鳥と花」
昭和32年 独立25回展「木と土と石」第4回日本国際美術展「くさむら」
昭和33年 独立26回「明るい郊外」「崖」「秋」。3回現代日本美術展「めだつ庭」他1点「鷹の会」結成
昭和34年 独立27回展「紋」3点5回日本国際美術展「皿山」。この秋の終りに顔面神経けいれんを発病。
昭和35年 独立28回展「黒い鳥」4回現代日本美術展「白い空地」「芽」。2月に病状は軽くなり、11月に欧州旅行の計画をたてる。11月に入院、
昭和36年 独立29回展「霧」1月から3月まで入院
昭和37年 独立30回展「黒い鳥」(朝日秀作美術展出品1963)「花」「飛ぶ」。9月19日死去
昭和38年 11月遺作集「青柳暢夫」(田近憲三、青柳春執筆)出版される(発行者青柳春)。12月、「青柳暢夫のこと」中間冊夫(「三彩」168号)

出 典:『日本美術年鑑』昭和38年版(141-142頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「青柳暢夫」が含まれます。
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