正宗得三郎

没年月日:1962/03/14
分野:, (洋)

 二紀会委員正宗得三郎は、脳軟化症のためかねて療養中であったが、3月14日東京都府中市の自宅で逝去した。享年79。明治16年8月22日岡山県和気郡に生まれた。画号薇洲、春江、扇浦。同35年上京して暫くの間寺崎広業に日本画を学んだが、同年9月東京美術学校西洋画科撰科に入学し、同40年3月卒業した。同級生に山本鼎、森田恒友があり、上級に青木繁がいた。青木とは生活を共にし、その死後、蒲原有明とはかって遺作展を開き、また遺作集「青木繁画集」を編集、刊行した。はじめ白馬会や文展に出品したが、大正2年には文展の二科設置運動に加わり、同3年二科会の結成をもたらした。同4年二科会会員となった。これより前、同3年4月ヨーロッパに遊学し、モネ、ルノアール、ゴッホを学び、さらにマチスを知った。同5年7月帰国し、この年の第3回二科展に「トックの女」「リモオジュの朝」など36点の滞欧作を特別出品して視聴を集めた。同10年9月再び渡欧、同13年1月帰国、第11回二科会展に「アトリエ」「モレーの運河」「セーヌ支流」などの滞欧作を特別出品し、その新鮮な色調でその存在を強く印象づけた。以後昭和18年まで二科会会員として出品をつづけたが、その時の作品に「海岸の夕暮」(第7回展)、「青衣婦人」(第12回展)、「赤い支那服」(第14回展)、「初秋」(第20回展)、「瀬田の唐橋」(紀元2600年展)などがある。昭和22年黒田重太郎鍋井克之宮本三郎らと第二紀会を結成し、委員の長老として重きをなした。はやくから富岡鉄斎に傾倒し、その作品の感化を受けたが、鉄斎研究家としても屈指の人で、病臥中に多年の成果である「鉄斎」が出版された。このほか多くの著作がある。また昭和38年には「正宗得三郎画集」が平凡社から刊行され、この画家のほぼ全貌をうかがうことが出来る。
畧年譜
明治16年 8月22日岡山県和気郡の正宗浦二の三男として生まる。長兄忠夫(白鳥)は文学者、次兄敦夫は国文学者として知られる。
明治35年 上京して寺崎広業の天籟画塾に入り日本画を学んだが、9月東京美術学校西洋画科撰科に入学。
明治40年 東京美術学校を卒業。
明治42年 第3回文展に初めて「白壁」入選。
明治43年 高村光太郎の琅玕洞で第1回個展を開く。第4回文展に「夕日の反映」入選、白蔦会展に「落椿」を出品。この頃印象派に共鳴する。11月結婚して西大久保に住む。
明治44年 第5回文展に出品したが落選、同志と落選展を開く。
大正2年 大阪で個展。
文展の二科設置運動に加わる。
大正3年 4月フランスに留学、マチスに会う。
大正4年 二科会会員となる。
大正5年 7月欧洲大戦のため島崎藤村と同船で帰国、牛込矢來町に住む。第3回二科展に滞欧作36点を特別出品。
大正6年 この頃から大正10年まで文化学院で指導にあたる。また富岡鉄斎と知り、屡々訪問するようになった。日本美術学院から「画家と巴里」出版。渋谷へ移転。
大正7年 11月東中野にアトリエを新築して移る。
大正10年 9月再渡欧。
大正13年 6月帰国。
大正14年 第12回二科展に「青衣婦人」を出品。アルスより「画家の旅」「マチス」を刊行。
大正15年 この年から昭和7年まで成城学園で教鞭をとる。
昭和2年 第14回二科展に「赤い支那服」出品。
昭和18年 第30回二科展に「正宗得三郎回顧陳列」として1室を設け「菊」、「山間の六月」、「四万川」、「瀬田の唐橋」等25点を陳列。美術工芸会から「正宗得三郎画集」、人文書院から「ふる里」を刊行。
昭和20年 東中野のアトリエを戦災で失い、長野県下伊那郡に疎開した。
昭和21年 日本美術展に「山村風景」出品。
昭和22年 4月黒田重太郎中川紀元等と第二紀会を結成、9月東京都美術館に第1回展を開く。
昭和23年 東京へもどる。
昭和24年 1月、西府村に移る。9月肉腫に侵され、奇蹟的に回復。
昭和25年 第4回美術団体連合展に「小菊」出品。
昭和28年 5月白木屋で個展。8月高島屋で鉄斎展、9月「鉄斎百扇」を摸写。
昭和30年 中里介山の「大菩薩峠」(河出書房版)に挿絵をえがく。12月府中へ移転。
昭和32年 御嶽に大菩薩峠碑文(文は白井喬二)を書く。
昭和36年 樋口一葉の肖像をえがく。11月脳軟化症のため臥床。12月多年の研究の成果たる「鉄斎」が平凡社より刊行さる。
昭和37年 3月14日逝去。享年79才。

出 典:『日本美術年鑑』昭和38年版(134頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「正宗得三郎」が含まれます。
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