須田国太郎

没年月日:1961/12/16
分野:, (洋)

 洋画家で、日本芸術院会員、独立美術協会会員の須田国太郎は、12月16日、長い間の肝硬変により肝性こん睡のため京都大学病院で逝去した。享年70歳。明治24年6月6日京都市中京区に、麻商彦太郎の次男として生れた。第三高等学校を経て京都帝国大学文学部哲学科に入学、美学美術史を専攻し、大正5年6月卒業した。のち関西美術院に入って洋画を学んだ。大正8年インドを経由してヨーロッパに留学、主としてスペインに滞在し、ヴェネツィア派やスペインの大家の作品を模写、研究して大正12年帰国した。昭和8年以来、京都帝国大学文学部、京都市立美術大学、京都工芸繊維大学、京都学芸大学などで美術史を講じ或いは実技を指導した。昭和31年から翌年にわたって京都市立美術大学の学長代理をつとめた。のち同校名誉教授に推された。また昭和9年には招かれて独立美術協会会員となり、毎年作品を発表し、同22年には日本芸術院会員を命ぜられた。同32年12月から京大病院に入院したが、病床でも筆を捨てず、毎年の独立展に出品した。その作風は、西欧的な画風から次第に東洋的な画風へ移り、褐色を主調とする渋い独自の色調の中に深い精神性をひそめている。そのデッサン力の秀抜さは、現代稀に見るものがあった。代表作には「法観寺塔婆」「唐招提寺礼堂」「歩む鷲」「海亀」「冬」「真名鶴」「フクロウ」などがあり、著作に「グレコ」(アトリエ社、西洋美術文庫)、「ゴヤ」(美術出版社)、「南方バロック」(みすず書房)などの単行図書のほか、諸誌に載せた論文、随想はきわめて多い。
略年譜
明治24年 6月6日、京都市に生れる。
明治42年 3月30日、京都府立京都第一中学校卒業。この間、横山常五郎に学ぶ。
大正2年 6月、第三高等学校(一部丙)卒業。
大正5年 6月、京都帝国大学文学部哲学科卒業。
大正6年 5月、関西美術院入学。
大正8年 2月、インドを経て渡欧。主にスペインに留まったが、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ギリシヤ、エジプト等を巡歴。
大正12年 7月、帰国。
大正14年 9月、和歌山高等商業学校講師となり、美術史を講ず。12月滋賀県神崎郡五箇荘松井氏の五女松井絹子と結婚、
昭和3年 6月、全関西展に「丘上の村」出品。
昭和5年 6月、関西美術会展に泰西名画の模写発表。
昭和6年 長男寛生れる。
昭和7年 9月、銀座資生堂に個展開催。
昭和8年 9月、和歌山高等商業学校講師を退く。京都帝国大学文学部講師となり、美術史を講ず。
昭和9年 3月、独立美術協会会員となる。第4回独立展に「夏の午後」「西班牙の山間」「法観寺塔婆」「唐招提寺礼堂」等16点出品。
昭和10年 1月、大阪美術新論画廊に個展。3月、第5回独立展に「水浴」「少女」出品。5月、京都市美術展に「信楽」出品。
昭和11年 3月、京都帝大文学部講師を退く。4月、第6回独立美術協会展に「工場地帯」「夏」出品。
昭和12年 1月、京都三角堂に個展開催。3月、田7回独立展に「書斉」出品。5月、第2回京都市美術展に洋画部審査員となり「村」出品。6月、大阪美術新論画廊に個展開催。
昭和13年 3月、第8回独立展に「修理部」「水田」出品。
昭和14年 3月、第9回独立展に「河原」出品。
昭和15年 3月、第10回独立展に「海亀」「黄比叡」「卓上静物」出品。4月、銀座資生堂に油絵小品展開催、「坂」「雨」等12点出品。10月、紀元二千六百年奉祝美術展に「歩む鷲」出品。
昭和16年 3月、第11回独立展に「戸外静」「月明」「芍薬」出品。11月、新関西美術協会第1回展審査員となる。
昭和17年 3月、第12回独立展に「冬」「夏」出品。10月、独立美術秋季展に「きつつき」発表。11月、竹頭会を結成。
昭和18年 3月、第13回独立展に「校倉(甲)」「校倉(乙)」、独立美術会員春季小品展に「鷲」出品。10月、第6回文展に「八坂神社西門」出品。
昭和19年 2月、第14回独立展「石組」3点出品。10月、戦時特別文展に「河内金剛山」発表。
昭和22年 4月、第15回独立展に「叢」出品。7月14日、帝国芸術院会員に選ばる。京都大学工学部講師となり、実技を講ず。
昭和23年 4月、京都市立美術大学講師となり、実技を講ず。10月、第16回独立展に「脱衣」を出品。
昭和24年 4月、京都大学文学部講師となり、1年間美術史を講ず。9月、京都市立美術専門学校客員教授となる。10月、第17回独立展に「浜(室戸)」「岬(室戸)」出品。
昭和25年 2月、自選作品鑑賞展を大阪高島屋に開く。3月、京都大学工学部講師を退く。京都工芸繊維大学工芸学部講師となり、実技を講ず。5月、京都市立美術大学教授および京都市立美術専門学校教授となる。奈良学芸大学講師となる。10月、第18回独立展に「犬」「溜池」「卓上」出品。
昭和26年 1月、第2回秀作美術展に「犬」出品。5月第5回美術団体連合展に「牡丹」出品。10月、第19回独立展に「法観寺塔婆」「書斉」出品。
昭和27年 1月、第3回秀作美術展に「断崖と漁夫達」出品、3月、京都市立美術専門学校教授を解かる。4月、京都学芸大学講師となり、実技を講ずる。5月、第1回日本国際美術展に「静物」出品。8月、京都国立博物館評議員となる。10月、第20回独立展に「鵜」「棚上静物」出品。
昭和28年 1月、第4回秀作美術展に「鵜」出品。5月、第2回日本国際美術展に「動物園」出品。10月、第21回独立展に「マナヅル」「走鳥」「イヌワシ」出品。9月、国立公園絵画展に「春の来島海峡」出品。
昭和29年 1月、第5回秀作展に「春の来島海峡」出品。5月、第1回現代日本美術展に「樹下」出品。10月、第22回独立展に「芥子」「八幡平(焼山)」出品。
昭和30年 1月、第6回秀作展に「芥子」出品。5月、第3回日本国際美術展に「杉」出品。10月、第23回独立展に「窪八幡」「檮原」出品。
昭和31年 1月、第7回秀作展に「窪八幡」出品。2月、京都学芸大学講師を退く。5月、第2回現代美術展に「老馬」出品。7月、京都市立美術大学学長代理となる。10月、第24回独立美術展に「ある建築家の肖像」「るりみつどり」出品。ヴェニス、ビエンナーレ展に出品。
昭和32年 2月、神奈川県立美術館に於て北川民次と二人展開催。5月、京都市立美術大学学長代理を解かる。第4回日本国際美術展に「魚市場」出品。10月、第25回独立展に不出品。
昭和33年 3月、奈良学芸大学講師を退く。10月、第26回独立展に「偶感」出品。
昭和34年 1月、関西画壇の向上に貢献した功績により、毎日美術特別賞を受ける。10月、第27回独立展に「鉱山」出品。
昭和35年 8月、京都市立美術大学教授を退く。同大学名誉教授の称号を受ける。京都国立博物館評議員を解かる。
昭和36年 10月、京都市篤志者として表彰される。12月16日、京都大学病院で死去。従四位、勲3等に叙せられ、瑞宝章を授けらる。12月22日、正四位、勲3等に叙せらる。

出 典:『日本美術年鑑』昭和37年版(127-128頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「須田国太郎」が含まれます。
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