榊原始更

没年月日:1969/10/02
分野:, (日)

日本画家榊原始更(本名捨三)は、10月2日心臓マヒのため京都市上京区の自宅で急逝した。享年74才。明治28年画家榊原蘆江の六男として京都に生れた。実兄に日本画家の榊原紫峰がいる。大正5年京都市立絵画専門学校本科を卒業し、同7年創立された国画創作協会第1回展に入選した。同15年第5回展で会員となったが、同展は7回で解散し、新樹社に拠った。この会も間もなく終了し、以後無所属となった。その作品は、画歴にもみられるように、はじめは西欧絵画への憧憬より出発した新しい日本画の創造に専ら力がそそがれたが、晩年は水墨画に新しい境地の展開を示した。
略年譜
明治28年 4月30日画家榊原蘆江(敬吉郎)の六男として、京都市中京区に生れる。捨三と命名。
明治39年 京都市立柳池尋常小学校卒業。
明治43年 京都市立第二高等小学校3月卒業 4月京都市立美術工芸学校入学。
大正2年 京都市立美術工芸学校3月卒業 京都市立絵画専門学校入学。
大正5年 京都市立絵画専門学校本科卒業。
大正7年 京都市立絵画専門学校研究科修了 卒業制作、この年創立されたる国画創作協会、第一回展に入選 父蘆江の友人、俳人不識庵より、始更の画号をもらう。
大正15年 国展第五回展にて会員に推挙さる。
昭和3年 国展七回展出品後、国展日本画部解散、新樹社に拠るその会も数回の展覧会にて潰れる。以後無所属となる。
昭和7年 5月、上京区寺ノ内大宮東入妙蓮寺山内玉竜院に居を移す。それまでは、鹿ヶ谷、河原町二条角、上賀茂等、1、2年にて居を変える。
昭和9年 6月玉竜院より本光院に移る。9月、植田寿蔵村上華岳入江波光、竹内勝太郎、榊原紫峰諸氏の支援のもとに十人の支持者を得て二曲十双の大作に感激を持ってとりくむ。
昭和10年 10月、京都市美術会に於ける御大礼記念展に二曲一双(五落の松)出品受賞。
昭和14年 二曲十双五年ごしに漸やく完成、12月28日、南禅寺天授庵に於て、屏風の会展覧。
昭和15年 6月18日~22日、東京銀座三昧堂にて個展開催、好評。
昭和17年 3月1日、気ままな独身時代に終止符、妻敏子娶る。
昭和18年 2月10~11日、南禅寺天授庵に於て個展。
昭和22年 5月丸物に於ける第三回京展に出品、朝日新聞、現代美術展二曲一双(竹)出品。
昭和24年 10月、百万遍、秋田屋にて個展。
昭和29年 11月9日~14日、京都大丸に於て個展。
昭和30年 7月5日~10日、大阪大丸にて個展。9月、独立美術展入選、10月、日展入選。
昭和31年 2月、朝日新聞美術懇話会会員となる。3月、大阪市立美術館に於ける関西美術展に(花静物)を賛助出品。5月京展依嘱となる。
昭和32年 3月関西美術展に(風景)賛助出品。
昭和33年 12月23日~27日 四条通堺町東入土橋画廊にて個展。
昭和35年 12月大阪阪神百貨店丸善画廊に於て個展。
昭和36年 京都市美術館に於ける「戦後十六年の歩み」展に(100号丘の道)出品。
昭和37年 5月1日~6日 四条烏丸土橋画廊に於て個展開催、京展(爽梢25号)出品。
昭和39年 5月京展(白い崖25号)出品、5月四条烏丸東入土橋画廊に於て個展。7月25日 南禅寺天授庵に於て、西陣の有志諸氏に依り榊原始更後援会発足結成さる。
昭和40年 5月京展(栂ノ尾100号)出品京都新聞秀作展(白い崖)出品。6月 南禅寺天授庵に於て、始更後援会作品発表会あり和気藹藹に会員諸氏の年中行事の一つになる。
昭和41年 5月 京展に(望郷25号)出品、京都新聞秀作展(栂ノ尾100号)出品。
昭和42年 5月 京展(山のひととき30号)出品13日~17日 潮画廊にて個展。
昭和43年 5月 京展(山裾80号)出品。10月15日~21日 京都大丸に於て個展好評。
昭和44年 5月 京展墨画(広沢池畔30号)出品 画境漸く円熟、45年度の東京個展を目標に精進せしところ10月2日午後10時30分急逝した。法名清涼院天真始更居士10月4日南禅寺天授庵墓地に葬られる。
昭和45年 5月 京展遺作として(嵯峨野)出品。 9月22日~27日榊原始更遺作展始更後援会により開催。
 (榊原始更遺作展カタログより転載)

出 典:『日本美術年鑑』昭和45年版(75-76頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「榊原始更」『日本美術年鑑』昭和45年版(75-76頁)
例)「榊原始更 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9108.html(閲覧日 2024-04-17)

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