近藤浩一路

没年月日:1962/04/27
分野:, (日)

日展会員の日本画家近藤浩一路は、27日東京都港区の慈恵医大東京病院で脳出血のため死去した。享年78。本名浩。明治17年山梨県に生れ、同43年東京美術学校洋画科を卒業した。読売新聞社に入社し、一時漫画を描いて知られた。第4回文展に「京橋」、7回に「下京の夜」を出品した。のち日本画に転じ、大正8年第6回院展に「朝の日」、「夕の日」を出品し、同10年に日本美術院同人となった。翌11年フランスに留学し、西洋絵画を見学して水墨画の世界に入って行った。大正12年の第10回院展に発表した「鵜飼六題」は、彼が公表した最初の水墨画と言われるが、この作品により制作の方向を明示するとともに画壇的な位置を決定的にした。大正13年以来京都に移住し、昭和12年に及んだがこの間「京洛十題」「犬山夜漁」「桶狭間」「雨余晩駅」等の代表作を生み、独自の画風を確立した。昭和6年再渡欧し、カモエン街の私邸で個展を開き之を機縁にアンドレ、マルロオ等の交友がはじまった。またマルロオの斡旋によって翌7年にはN・R・F社の画廊で第2回個展を開き、多くの反響をよんだ。帰国後院展に作品を発表し中には昭和10年第22回院展出品「御水取八題」のように初期の佳作をはるかに凌駕するような力強い佳品もみられる。彼はその出品を最後に日本美術院を脱退し、間もなく京都から東京に帰った。その後は専ら個展によって作品を発表し、一時画壇の傍系的存在である観があったが、昭和34年日展会員になった。これよりさき昭和28年には、日本橋三越において「水墨30年回顧展覧会」が盛大に開かれ、大正12年頃より当時に至る50余点の作品が陳列された。彼は洋画に出発し、東洋の水墨画に光線をあたえて伝統を破った独自の画風を確立した。
略年譜
明治17年 山梨県に生れる。
明治43年 東京美術学校洋画科卒業。黒田清輝、和田英作に学び、同窓に山脇信徳岡本一平、池部釣、藤田嗣治等がいる。この年第4回文展に「京橋」(油彩)出品。
大正2年 第7回文展に「下京の夜」(油彩)出品。
大正4年 読売新聞社に入社し漫画を描く。
大正8年 「朝の日」「夕の日」「霧」(日本画)を第6回院展に出品。
大正10年 日本美術院同人に推される。
大正11年 渡仏。
大正12年 「鵜飼六題」(水墨)第10回院展出品。
大正13年 京都移住。「京洛十題」第11回院展出品。
昭和3年 「犬山夜漁」第15回院展出品。
昭和4年 「桶狭間」(のち虹と改題)第16回院展出品。
昭和6年 再渡仏。カモエン街の私邸で個展を開く。
昭和7年 N・R・F社画廊で第2回個展開催。
昭和10年 「御水取八題」第22回院展出品。
昭和11年 (日本美術院脱退)。以後個展により発表。
昭和13年 東京に転居。
昭和28年 「水墨画回顧30年」展を日本橋三越に開催。この展覧会を機会に読売新聞社より画集刊行される。
昭和34年 日展会員となる。
昭和36年 かねて高血圧症のところ4月27日慈恵医大東京病院にて脳溢血のため死去した。

出 典:『日本美術年鑑』昭和38年版(137-138頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「近藤浩一路」『日本美術年鑑』昭和38年版(137-138頁)
例)「近藤浩一路 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9065.html(閲覧日 2024-03-29)

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