西田武雄

没年月日:1961/07/26
分野:, (版)

 戦前、東京麹町に室内社画堂を経営し、夙くエッチング技法の推進普及につとめ、日本近代美術史の在野研究家として知られた西田武雄は、7月26日、昭和20年疎開したままの郷里、三重県一志郡で脳溢血のため死去した。号、半峰。享年67歳。明治27年7月11日三重県一志郡で、西田清蔵の5男として生れた。7歳の時横浜市大川福松家の養子となる。同42年横浜商業学校に入学、大正3年同校在学中、第8回文展に水彩画「倉入れ」が入選した。同7年東京本郷洋画研究所に入り岡田三郎助の指導を受けた。同10年支那旅行に出向き、上海にて天然痘にかかり2ヶ月入院、その間日本倶楽部で個展を開き、12月漢口へ出発、北京、天津、大連を経由して、翌11年8月帰国した。同14年日米ビルに画堂室内社を開き、芝川照吉、石井鶴三木村荘八、小杉未醒、石井柏亭田辺至岡田三郎助中沢弘光らの個展を催した。同15年6月丸善と共同主催にて燕巣会第1回展を開いた。昭和2年燕巣会第2回展を開く。同年日米ビルより麹町に移転した。同5年木星書院より「エッチングの描き方」を発行した。同6年「西田武雄デッサン集」を出版。「アサヒグラフ」へ正木不如丘作「第二診察簿」にエッチング挿絵を描く。同7年雑誌「エッチング」を創刊。同8年「画工志願」を出版、同10年「アサヒグラフ」(25巻10号)へ「回顧70年明治初期洋画」を執筆する。同13年4月麹町室内社画堂にて旧草土舎展を開く。また5月には銀座資生堂画廊にて岸田劉生展を開催し、7月には広山インキ株式会社を設立した。同14年一ツ橋高商図書館の蔵書票をエッチングで作製した。「みづゑ」419号に「岡田三郎助」を書く。同20年室内社画堂戦災に遭い郷里三重県一志郡に疎開、農家に居住した。妻女と別居し、以来郷里の新聞雑誌に寄稿、孤独を紛す為各地の知友にハガキ絵或いは狂歌を書き送った。同27年「アトリエ」9月号に「日本美書考」を執筆。この年1月1日よりハガキ絵と狂歌の普及を志して精励し、同36年7月26日没するまで、その発送のハガキ(7月23日発送の分が絶筆)が26,744通に達したという

出 典:『日本美術年鑑』昭和37年版(126頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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