川村驥山

没年月日:1969/04/06
分野:, (書)

 書道家日本芸術院会員川村驥山、本名慎一郎は4月6日老衰のため長野市の自宅で死去した。享年87才。
年譜
明治15年 5月20日静岡県磐田郡に生る。川村家は代々学問を以って藩に仕え父肇(東江)も漢学と書をもって家業とし九十三才没。
明治18年 父東江に書を習う。漢学を習う。
明治19年 論語、孝経、大学、中庸、盂子等素読。大丈夫驥山館
明治20年 可睡斎西有穆山禅師に般若心経を学ぶ。
明治22年 刮目尋常小学校に入学、2年間で4年の課程を卒業太田竹城の書塾に入門(3年間学ぶ)。
明治23年 岡田良一郎主宰の翼北学舎に漢学を学ぶ。岡田良平、一木喜徳郎の実父で代議士になった人。
明治25年 二葉と号す。この年より五年間に亘り静岡県知事の推奨により県下各小学校を「豆書家」として父に伴われて巡回模範揮毫をなす。草書細字 孝経
驥山館当時の作品各地に散見す時人「神童」と呼ぶ。
明治30年 書家として独立、全国行脚をなす京都に谷如意、福原周峯、河馬天江、林双橋、小林卓斎、富岡鉄斎、神田香巌、遠山盧山等の益を受く、富永節堂と共に詩文の研究をなす。詠漁翁 驥山館
明治31年 奈良で越智哲に漢学を学ぶ。
明治32年 奈良一柳石松の離れ座敷を与えられて詩・書の勉強をなす。一柳氏は俠客。
明治33年 神田に本田退庵を知り、又橋本関雪と交り共に将来を誓う。湊川に第一期六ヶ月の書道塾を開き「翰墨林社」と称う。「君は画で行け、僕は書で行く」橋本との約をなす。
明治34年 大江卓に招かれて上京す。小美田家に寄寓し、小室届出門に学ぶ。師より号を驥山字を子叔と撰定さる。後に酔仏、長嘯庵人等を用う。中山博道等に書道を教ゆ。
明治35年 郷里遠州で徴兵検査不合格。3月驥山改号の披露を曹洞の大寺可睡斎で催す。
明治36年 5月奈良県五条桜井寺に寄寓、9月高野山に籠り百日間弘法大師の研究に没頭、この時般若心経を六曲一双に揮毫。草書心経六曲一双 驥山館
明治37年 5月長崎皓台寺に寄寓。同寺の碩徳霖玉僊師に師事5年間修業。この間九州各地を歴訪、又中国に渡ること5回、中国の文化人と交流、書の研究をなす。鄭成功の碑を四体に写す。皓台寺
明治41年 神戸に帰る、帰神書会を催す。森琴石、江藤翠石、橋本関雪等参会す。京阪神、大和を転々、古筆名鐘をさぐる。神戸に家を持ち再び塾を開き「措陰書塾」と称す。12月右手に書痙攣(県立病院診断)を起し左手で書く。6ヶ月間京都に静養回復す。きく子を娶る。
明治42年 10月15日長女出生。名は和気、字は惋愉、号は佩玉。
明治43年 清浦奎吾の斡旋により11月上京、内閣賞勲局に勤務。田中光顕、犬養木堂の知遇を受く。
明治44年 勧業博覧会の書道展に出品す。
明治45大正元年 12月2日長男出生。健爾と命名。
大正2年 賞勲局を辞して書三昧の生活に入る。4月新潟に遊び良寛和尚の書に親しむ。
大正3年 大正博覧会に出品。神戸長田村に住む懐素の秋興八首の研究をなす。
大正4年 1月九州・長崎・熊本・鹿児島に行脚。3月次女出生。8月奈良県五条に書塾を開く。靄子と命名。
大正5年 東京赤坂に移り年間定住、依嘱を受けて帝国地方行政学会文書課に勤務の傍ら書道研究と各書道会の育成に努む。
大正9年 次男出生。隆信と命名。この時代の作品の多くは震災により焼失す。
大正13年 9月6日東京杉並区に新築移転す。
大正15年 昭和元年 清浦奎吾、小笠原長生、田中捨身、豊道春海、今泉雄作等と共に書道作振会に参画す。書道会の揺籃時代。戌申書道会、書道作振会、泰東書道院。
昭和6年 4月11日。河井筌盧、仁香保香城、西川吉羊、松本芳翠、柳田泰雲・泰麓父子と共に外務省よりの派遣文化使節として中国に渡る帰朝後も中国文人高官と交友続く。東方書道会を興し第1回展を開催す。楷書屏風朽木家殊に蘭亭を尋ね、彼の蘭亭竹を以て杖を作り筆管を作り愛用す。董事審査員たり。
昭和7年 東方書道展 2回展。孝経屏風 大倉喜八郎。
昭和8年 3回展。8曲屏風書道の歌。山本米三。
昭和9年 4回展。教育勅語 植村澄三郎 今村力三郎、植村澄三郎、桜井兵五郎等に書道を教ゆ。
昭和10年 5回展。泰山石経「富士登山の詩」成る。桜井兵五郎、驥山館。国分青崖翁に師事す。
昭和11年 6回展。草書屏風 高島菊次郎。
昭和12年 7回展。17条憲法 「狂草飲中八仙歌」成る。山本米三、川村家 飲中八仙歌は酔中の作此の時代酔仏の名あり。
昭和13年 8回展。遺教経 驥山館。
昭和14年 9回展。赤壁賦 諸戸家。
昭和15年 10回展。中庸 徳川家達氏。
昭和16年 11回展。9月夫人とともに中国北京に移り住む、中国書道研究に従事す。忠経、孝経。驥山館。古井喜実等に書道を教ゆ。
昭和17年 東方書道展12回展3月中国より帰朝す。金剛経驥山館。
昭和18年 東方書道展13回展。飲中八仙歌 高梨正躬。
昭和19年 14回展。草章易経 驥山館 報国書道会と改称董事審査員。
昭和20年 3月15日戦禍を避けて信州に疎開、柳沢区耕心庵に住居す。5月の空襲で杉並の本邸を焼失す。「楷書蘭亭序」「草書帰去来辞」。6曲1双成る折帖20数点。驥山館。
昭和21年 揮毫会を催し、揮毫科を挙げて耕心庵に寄付してその修理を助く。
昭和23年 耕心庵幽居時代の作品を携え東京三越本店に於て個展を開催す。第4回日展科に書道が参加し参事審査員となる。毎日書道展第回展開催、審査長となる。長野県書道展開設され以来審査長となる。日展出品荘子逍遙篇。太田喜八郎。個展作品40点賛助出品として家族のきく子、佩玉の作15点。毎日書道展は第1回展以来毎年出品す(作品録略)胃潰瘍を病む。
昭和24年 日展出品。隷書聯 文部省 御買上となる。病床にあり。
昭和25年 日展出品。酔古堂剣掃語 驥山館 この年も病床に在り。芸術院賞受賞作品。
昭和26年 日展出品。篠ノ井町芝沢区に新居建築移転5月26・7・8日善光寺大本願明照殿に於て個展開催。5月16日芸術院賞受賞。9月28日宮中に於て天皇陛下の御陪食を賜う。御陪食の詩成る。曹盂徳の詩 川村家 日本書道聯盟にて受賞祝賀会。長野市、篠ノ井市に於ても受賞祝賀会。
昭和27年 日展出品。名古屋市に於て個展開催。周易の一節 驥山館
昭和28年 日展出品。六言二句対連 太田喜八郎 国際画報に掲載さる。
昭和29年 日展出品。3月より6月迄四国88霊場及び紀州・京都を佩玉を伴うて行脚。李嶠松の詩、四国客中作24点「那智瀑下の詩」成る 驥山館 四国客中作品を織田子青出版す。
昭和30年 日展出品。7月-8月北海道を佩玉を伴うて行脚。書斎建築落成。草書真山民詩 北海道客中作「毬藻の詩」成る。驥山館
昭和31年 日展出品 良寛詩 驥山館 大額春風秋霜 警視庁。
昭和32年 日展出品。四君子の詩。驥山館。
昭和33年 日展出品。5月3日長野県文化功労賞受賞。9月22日篠ノ井町名誉町民となる。横預前赤壁一節 驥山館 新日展と改組。評議員審査員となる。終戦以来県書道文化興隆に寄与した功績認められる。
昭和34年 日展出品。日本書道聯盟より喜寿記念品を贈呈さる。9月12日長野県書道展運営委員会より金盃受領 虚堂禅師墨竹の賛 驥山館 篠ノ井に於ける喜寿祝賀会に驥山館建設の議起る。
昭和35年 日展出品。4月10日美術家祭に表彰さる6月1日篠ノ井名誉市民となる。11月16日驥山館建設敷地払下議決 赤壁前後一節 川村家
昭和36年 4月12日財団法人驥山館認可。6月6日-11日長野市丸光百貨店に於て書業年75回顧展開催。10月驥山館完成。11月日本芸術院会員に就任。出品点数60点。
昭和37年 5月2日驥山館会館。1月よりきく子夫人病床にあり。
昭和39年 日展出品。この年もきく子夫人病床。青山不動白雲去来。
昭和40年 3月12日きく子夫人逝去。4月信濃美術館の題字を書く。信濃美術館。
昭和41年 勲3等瑞宝章を授与される。米寿を祝して全書道界の105名家より書作品の寄贈を受ける。
昭和42年 日展を長野市に招致開催。
昭和44年 4月6日 逝去 特旨を以て位記従位追賜。遺作日展出品。日々是好日 静岡県袋井市油山寺驥山生地に埋骨篠ノ井円福寺に分骨。
昭和45年 3-4月信濃美術館にて遺作
5月11日本葬
 (「墨美」111号川村驥山特集号による)

出 典:『日本美術年鑑』昭和45年版(71-73頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2016年11月29日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「川村驥山」が含まれます。
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