内藤伸

没年月日:1967/08/21
分野:, (彫)

 彫刻家、日本芸術院会員の内藤伸(号・山上居)は、えん下性肺炎と心不全のため、島根県松江市灘町の市立病院に入院中のところ、8月21日午前0時20分死去した。享年84才。松江市の名誉市民で26日午前10時から松江市公会堂で市民葬が行なわれた。明治15年10月1日、島根県飯石郡に生れ、幼時より松江市の商家に養われていたが、だんだん彫刻を好むところとなり、上京して高村光雲の門に入った。更に明治34年東京美術学校彫刻選科に学び、明治37年同校を卒業した。明治41年第2回文展に「安住と迷想」が初入選してより、第4回に「湯あがり」(褒状)、第6回に「藤原時代の女児」、第7回に「牛刀」(褒状)等を出品して認められたが、これよりきき、平櫛田仲、米原雲海山崎朝雲らが岡倉天心の肝いりで、明治40年以来結成していた日本彫刻会の第4回展(大正元年)に「藤原時代の女児」他3点、第5回展に「木の実」「牛刀」を参加出品していたよしみもあり、大正3年再興日本美術院に参加して、「独房」他1点を出品し、その第1回展の開会中に平櫛田中吉田白嶺、佐藤朝山らと共に美術院同人に推挙せられ、同彫刻部の基礎をつくった。その第2回展に「山上」「壺」「狩」、第3回に「若葉の頃」、第4回に「浴の乙女」「獅子」と毎年発表を続けたが、大正8年故あって同人を辞した。以後大正9年第2回帝展の審査委員を任命されてより、新文展、戦後の日展にいたるまで官展系の有力な木彫作家としてわが彫刻界の指導的地位にあって多くの後進を育成した。その顕著な業績のひとつとして、昭和4年日本木彫会を創立主宰し(昭和36年解散)、日本近代木彫の振興と普及に尽力し、例えば彼がかつて「木彫の技法と心境」(「中央美術」大正13年7月・8月号)を発表しているように、独自な研究を体系づけて木彫技法を新案工夫し、それを多くの後進に提唱指導し、また作品に彩色を用いるなど、近代木彫の格調高く創造的な新しい展開に寄与したことは大きい。その作風の趣味性として、新古典主義ともいえるローマンチックな想念を形体化したことが特徴づけられる。昭和20年戦災に遭い、郷里に疎開したまま、殊に昭和27年2月から動脈硬化症を発病し、晩年中央での活躍がみられなかったことは誠に惜しまれる。代表作に「牛刀」「山上」「獅子」「芳醇」「六道将軍」「上宮太子」「子安」「竜猛・恵果」「光明皇后」「唯仏是真」「天安川原」等の多くがある。また歌集「山並」(昭和29年)がある。
略年譜
明治15年 10月1日、島根県飯石郡に生れる。
明治34年 東京美術学校彫刻選科に入学。
明治37年 7月、同校彫刻選科卒業。
明治41年 第2回文展「安住と迷想」入選。
明治43年 第4回文展「湯あがり」褒状。
大正元年 第6回文展「藤原時代の女児」出品。
大正2年 第7回文展「木の実」褒状、「牛刀」。
大正3年 再興日本美術院に参加、第1回展に「独房」他1点を出品、同人に推挙される。
大正4年 第2回院展「山上」「壺」「狩」出品。
大正5年 第3回院展「若葉の頃」出品。
大正6年 第4回院展「浴の少女」「獅子」出品。
大正10年 第3回帝展審査委員。「芳醇」「獅子」出品。
大正11年 第4回帝展審査委員。「六道将軍」出品。
大正14年 第6回帝展「子安」「恵果阿闍梨」出品。
大正15年 第1回聖徳太子奉讃展に「上官太子」出品。第7回帝展「竜猛菩薩」出品。
昭和2年 帝国美術院会員となる。第8回帝展「光明皇后」出品。
昭和4年 第10回帝展「国引」出品。日本木彫会創立。
昭和5年 第11回帝展「楠公像」出品。
昭和6年 第12回帝展「唯仏是真」出品。
昭和9年 第15回帝展「東郷元帥之像」出品。
昭和12年 第1回文展審査員。「野田中将像」出品。
昭和15年 紀元二千六百年奉祝美術展「順天我往」出品。
昭和17年 第5回文展「天翔る神」出品。
昭和19年 戦時特別展「防人」出品。
昭和20年 東京淀橋区の自宅戦災に遭い、郷里飯石郡に疎開。
昭和22年 第3回日展「白芙蓉」出品。
昭和24年 第5回日展「峰嵐」出品。同展審査員。
昭和27年 2月動脈硬化症を発病。日本木彫会を再興し、その第1回展に「聖観音」出品。
昭和28年 松江市の自宅に移る。
昭和29年 第10回日展「歌神」出品。歌集「山並」出版。
昭和33年 社団法人日展顧問。松江市名誉市民に推さる。
昭和37年 内藤伸と藤門会木彫展(於・松江市)開催
昭和42年 8月21日永眠。

出 典:『日本美術年鑑』昭和43年版(147-148頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「内藤伸」が含まれます。
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