朝倉文夫

没年月日:1964/04/18
分野:, (彫)

彫塑家、日本芸術院会員朝倉文夫は、4月18日午前9時30分、急性骨髄性白血症のため東京都台東区の自宅で逝去した。享年81才。明治16年3月1日大分県直入郡に生まれる。明治35年9月郷里の中学校を中退し、実兄の彫塑家、渡辺長男を頼って上京、翌36年4月東京美術学校彫刻選科に入学した。明治40年3月同校を卒業し、翌年の第2回文展に出品した「闇」に一躍2等賞が与えられ、世人瞠目の中にひきつづき7度の受賞を重ね、文展初期において麒麟児ぶりを発揮した。大正5年の第10回展では早くも審査員となって官展における地位を確立した。さらに大正13年には帝国美術院会員、これより前大正10年以来昭和19年まで東京美術学校教授をつとめ、実に24年間の長きにわたり後進を育成した。早くからわが彫塑界のみならずひろく美術界で重きをなしていた。作風は、「墓守」(明治43年・第4回文展2等賞)が一転換期の作となって以来、一貫して自然主義的写実を標榜し、いわゆる朝倉イズムの手法として文・帝展彫塑の一つの典型をつくったといえる。また自ら朝倉彫塑塾を主催して子弟の育成につとめ、その確固たる技術と円満寛容な人格的包容力とをもって公私共に多くの後進を養成した。昭和23年文化勲章、26年文化功労者に加えられ、36年には郷里、大分県の竹田市名誉市民におされた。幼時より家庭で特殊教育をした長女・摂が日本画家、次女・響子が彫塑家として活躍、芸術一家としてもよく知られている。
略年譜
明治16年 3月1日大分県直入郡に生る。父渡辺要蔵、母きみの三男
明治24年 9月大分県大野郡の朝倉宗家を継ぐ
明治26年 上井田第一尋常小学校卒業、引き続き直入郡竹田高等小学校に入学
明治30年 竹田高等小学校卒業、大分中学竹田分校に入学
明治35年 9月竹田中学校を中退、上京実兄渡辺長男居住の下谷区に奇寓、彫塑を学ぶ
明治36年 4月東京美術学校彫刻選科に入学。在学中は専ら貿易品の原型をつくってアルバイトをする。
明治38年 海軍の三提督銅像募集に応じ「仁礼景範像」が1等に当選。これが肖像彫刻を手がけた最初。
明治40年 3月東京美術学校彫刻科卒業、谷中にアトリエを新築し、彫塑研究の傍ら子弟を養成し朝倉彫塑塾の発端をなす。卒業制作「進化」
明治41年 第2回文部省美術展覧会に「闇」を出品、2等賞となり文部省買上げとなったが、のち破砕して現存せず、2等賞ははじめて与えられたもので無名の青年作家朝倉は一躍世に知られた。同年作「雲」
明治42年 第3回文展出品「山から来た男」「宮崎きく像」「吊された猫」。「山から来た男」は3等賞受賞文部省買上げ。
実兄渡辺長男と合作で「井上馨像」を興津に設立
明治43年 第4回文展出品「墓守」「若者胸像」「九月の作」。「墓守」は2等賞受賞。同年作「桃源」「深田真彦像」
明治44年 2月南洋北ボルネオその他を視察して9月帰朝。持ち帰った銅器陶器ジャワ各地の更紗並びに工芸品を10月の東京美術学校記念日に展観。
第5回文展出品「土人の顔」2点「産後の猫」。「土人の顔」は3等賞受賞政府買上げ。
大正元年 第6回文展出品「若き日のかげ」「父と母の像」。「若き日のかげ」は3等賞受賞。同年作「尾竹翁像」「松田武一胸像」。
大正2年 南洋銅器図録を出版。第7回文展出品「含差」「いねむる猫」。「含差」は2等賞受賞。同年作「カチューシャに扮れる松井須磨子」「はるか」。
大正3年 同年度の賞美章を授与さる。第8回文展出品「いずみ」「嘉納治五郎」。「いづみ」は2等賞受賞。大正博覧会展の審査員を任命さる。大正博覧会出品「かげとささやき」「酔素袍」「狗(金メタリコン)」。同年より2年間に亘り鹿児島に設立される島津家三代の像の制作に専ら従う。東京朝日紙上に「彫刻界の現在」なる所論を発表し、論理より技巧の重要さを力説、当時のロダン一辺倒の時潮に一矢を報いる。
同年作「養老」「瑞狗」「猫(金メタリコン)」「藤山雷太胸像」「梅蘭芳」「ケルネル(農科大学教授)胸像」。
大正4年 東京下谷山田許吉次女やま子と結婚。前年度より専念する島津家の作品制作のため第9回文展出品を休む。国民美術協会に「おもい」出品。
大正5年 文部省美術展覧会審査員に新任さる。第8回文展で元老が勇退したのでこの年北村四海と新人朝倉文夫が審査員となる。第10回文展出品「加藤弘之胸像」。同年作「北畠治房像」「石川光明胸像」「黒沢鷹次郎胸像」(長野県岡谷)「大隈重信銅像」(東京芝公園9月除幕式)。
大正6年 文展審査員を任命さる。第11回文展出品「時の流れ」この作品に対して裸体問題がおこり警視庁の命令で東京美術学校内に特別陳列された。同年作5月鹿児島市山下採勝園内に「島津斉彬」「島津久光」「島津忠義」の銅像が完成除幕。「コマイヌ」一対。
大正7年 文展審査員任命。第12回文展作品「衝動」。
大正8年 帝展審査員を任命さる。第1回帝国美術院展覧会出品「矜持」「臥たるスター」。同志と「バンドラ社」を起しはじめて彫刻作品をデパート(白木屋)に陳列する。同年作「蔵内次郎作銅像」(福岡県)。
大正9年 帝展審査員任命。第2回帝展出品「頬」「田尻稲次郎像」。東台彫塑会作品「スター」。故郷大分市の九州沖縄八県共進会に美術館を設置するため4ケ月間帰省、会場装飾として地球儀に噴水を設置してその上に1丈2尺の「大友宗麟像」を建設する。同年作「黒沢鷹次郎胸像」(上田市)「佐藤三吾像」(東京四谷区役所)。
大正10年 5月東京美術学校教授を任ぜられる。帝展審査員となる。第3回帝展出品「浴光」。
大正11年 長女摂子(新制作協会会員・日本画家)生れる。帝展審査員となる。第4回帝展出品「花のかげ」これは建畠大夢の作とともに裸婦像の代表作と評さる。
同年作「小栗上野之介像」「ウェルニー胸像」(共に横須賀諏訪山)「島津珍彦像」(鹿児島第七高等学校造士館)。
大正12年 東京美術学校内の文庫に保存陳列されていた作品が関東大震災のため多数破損し、ロダンの「青銅時代」は数百片に破砕したので、校長正木直彦の依頼により修繕。同年作「獅子」(唯一の木彫作品)。帝展休止。
大正13年 帝国美術院会員に選ばれる。第5回帝展出品「砲丸」。同年作「米大使ウツヅ像」「芽」「佐藤章像」(秋田市千秋公園)
大正14年 次女響子(彫塑家)生れる。第6回帝展出品「新秋の作」。東京朝日紙上に「帝展彫塑の紛擾」を発表。同年作「和田豊治記念碑」(静岡県小山町)「水島鉄也像」(神戸高商)「山川健次郎像」「安川敬一郎像」「的場中像」(三像とも戸畑・明治専門校)。
大正15年 第7回帝展出品「水の猛者」、同年作「佐藤慶太郎像」(東京都美術館)「長瀬富郎立像」「長瀬富郎夫婦胸像」。奉讃会出品「微笑」。
昭和2年 第1回朝倉彫塑塾展覧会を東京都美術館で開催する。第1回朝倉塾展出品「N刀自胸像」第8回帝展出品「緑のかげ」(大分市遊歩公園)。了々会出品「仔猫の群」「のどか」(東京三越)。同年作「大浦兼武像」(鹿児島)「大村西崖像」(東京美校)「後藤新平像」(東京愛宕山)「大隈綾子像」(東京早稲田)「石垣隈太郎像」(東京赤坂)「秩父宮胸像」
昭和3年 帝展第4部(工芸)審査員に任命さる。帝国美術院会員を辞す、朝倉塾挙って帝展に出品せず。第2回朝倉塾展出品「秩父宮登山姿像」「踊のポーズ」「加藤高明像」。同年作「尾見大連病院長立像」(大連)「大塚信太郎像」「水之江文二郎像」(大分県)「加藤高明銅像」(名古屋鶴舞公園)「豊後和牛」。
昭和4年 第3回朝倉塾展出品「頭山満」「古市公威」「東京府立-中川田校長」「西川虎吉」「麻生観八」(大分)「高山樗牛」の各胸像。同年作「瑞獣」「中原市五郎像」「各務謙吉像」「茂木七郎兵衛像」「石井素胸像」「北里柴三郎像」「宮田光雄像」「磯村豊太郎像」「松浦鎮次郎像」など。
昭和5年 第4回朝倉塾展出品前年作の「中原像」「各務謙吉像」など。同年作「後藤新平像」(大連星ケ浦)「鳩山春子像」「若き春子胸像」「小林盈像」「渡辺祐作像」「岩村透像」「柳悦税頭像」「松本謙次郎像」(九州)「武井覚太郎像」
昭和6年 朝倉塾展で屋外陳列を行なって野外展の先鞭をつける。第5回朝倉塾展出品前年作の「渡辺像」「岩村像」など。同年作「兎の群」「郷誠之助像」「佐藤茂兵衛像」「久保猪之吉像」「佐藤三吉像」「小林作五郎座像」「南次郎像」「高松宮献上 スキーの大文鎮」。
昭和7年 早稲田大学校賓に推挙さる。第6回朝倉塾展出品前年作の「郷像」「小林像」など。同年作「大隈重信像」(早稲田大学50年記念)「本山彦一胸像」(毎日新聞本社)「加藤高明胸像」「星野錫胸像」。
昭和8年 第7回朝倉塾展出品前年作の「大隈像」「本山像」など。同年作「犬養毅像」(岡山)「渋沢栄一像」(東京常盤橋)。
昭和9年 東京台東区谷中天王寺町初音町にわたる旧家屋とアトリエを改造して朝倉彫塑塾とする。第8回朝倉塾展出品前年作の「犬養毅像」など。「彫塑余滴」(隨筆集)を出版。同年作「米山梅吉像」「本田坊秀哉像」「武藤山治像」(神戸)「村山竜平胸像」「上野理一胸像」(朝日新聞大阪本社)。
昭和10年 帝国美術院改組により一旦辞した帝国美術院会員に再び推挙される。第1回文展審査員となる。新渡戸稲造の多摩墓地を建設。第9回朝倉塾展出品前年作の「村山像」「上野像」「武藤像」など。同年作「嘉納治五郎像」「田中智学像」「栄原像」(満州)「市川左団次胸像」「市川団十郎胸像」「尾上菊五郎胸像」(東京歌舞伎座)。
昭和11年 朝倉塾を朝倉彫塑塾に改め、東京府の特殊学校の認可をうける。第10回朝倉塾展出品前年作の「嘉納像」「左団次・団十郎・菊五郎の胸像」など。第2回文部省美術展覧会出品「九代目団十郎胸像」。東京都美術館10周年展出品「親子猫」。同年作「小村寿太郎像」「大河内正敏像」「郷誠之助胸像」「織田万像」「タウンセント・ハリス像」(米大使館寄贈)「ハリスの碑」(東京麻布)。
昭和12年 帝国芸術院会員となる。「彫塑技法」の執筆完了(未出版)。第11回朝倉塾展出品前年作の「大河内像」「小村像」「郷像」など。同年作「斎藤実像・夫人像」「郷誠之助座像」「杉山敦麿像」「野村吉兵衛像」「双葉山像」。
昭和13年 第12回朝倉塾展出品前年作の「杉山像」「斎藤像」「野村像」「双葉山像」など。第1回文屋出品「平沼博士像」。同年作「大隈重信像」(国会議事堂)「小林寿太郎胸像」「興国臣民誓旨の柱」(京城)
昭和14年 第13回朝倉塾展出品前年作の「大隈像」など第2回文展出品「竿忠の像」。同年作「木下成太郎像」。
昭和15年 第14回朝倉塾展出品前年作の「木下像」など第3回文展出品「文武の師」(田辺陽一郎・柏木司馬次郎像)。「東洋蘭の作り方」(蘭栽培手引書)を出版。
昭和16年 第4回文展出品「再起の踊」、紀元2600年奉祝展出品「和気清麿像」(橿原神宮献納)同年作「Y君の胸像」。
昭和17年 第5回文展出品「餌む猫」。「民族の美」「衣食住」「美の成果」(いずれも隨筆集)を出版。同年作「可美真手命」「佐藤慶太郎像」「立てる女」。
昭和18年 戦争のため朝倉彫塑塾生20名とアトリエでゲージの制作に従う。第6回文展出品「翼」同展中唯一点の裸体彫刻。「船南鎖話」(30年前の南洋思出話)を出版。
昭和19年 6月在職24年の東京美術学校教授を願に依り免ぜられる。過去40年間に制作した大は1丈6尺、中は等身、小は胸像座像などその数400屋外に建設したもののほとんどは金属回収のため消滅、原型300点は保存し得た。
昭和20年 3月帝室技芸院を拝命、春戦禍をさけ一家を挙げて奥多摩へ疎開。
昭和21年 第1回日展出品「よく獲たり」(3月)。第2回日展出品「生誕」(10月)。同年作「米人群像」「メモリアルホール」「マックアーサー元帥」(メダル)。
昭和22年 第3回日展出品「姉妹」、東京都美術館20周年記念現代美術展出品「のび」。同年作「虎」(小品)「ウォーナー博士胸像」。
昭和23年 文化勲章を安田靱彦、上村松園とともに授与さる。第4回日展出品「目」。同年作「岸清一像」「御嶽の白狼」(園芸文化協会メダル)。
昭和24年 スタース・アンド・ストライプス紙上で紹介さる。第5回日展出品「三相」。同年作「跡見花蹊像」「跡見李子像」「小林昭旭像」「森永像」「石橋上野女学院長像」。
昭和25年 第6回日展出品「動静一如」。同年作「滝廉太郎」「熱田神宮寄進の猫」「斎藤喜一郎胸像」「武井覚太郎胸像」「キッパス」(メダル)「米人イートン・パッティ中佐浮彫」。
昭和26年 本年より文化功労者、文化勲章拝受者としての文化功労年金を受ける。第7回日展出品「明暗」(二部作)。野田醤油モニュマン「天使像」を作る。同年作「大谷竹次郎像」「白井松太郎像」「杉山金太郎胸像」「井口誠一胸像」「海野みつ子像」。
昭和27年 12月20日妻やま子死去。第8回日展出品「平和来」。仙★会出品「耽々猫」(東京高島展)。同年作「小村寿太郎立像」(日向)「山下亀三郎小像」「田中清一胸像」「古橋選手の首」
昭和28年 日本彫刻家倶楽部の顧問となる。国立近代美術館の「近代彫塑展」に「墓中」「時の流れ」が出陳される。第9回日展出品「F子像」。日本彫塑展出品、鋳造の「よく獲たり」「動静一如」。「富士山の歴史性執筆」をはじむ同年作「老猿」「天使の像」(茂木庭園)「井上貞次郎胸像」「麻生益良胸像」「後藤豊三郎二代の胸像」「石井選手の首」
昭和29年 朝倉彫塑塾財団法人となる。11月12日より21日まで東京高島屋8階大ギャラリーで朝日新聞社主催の回顧展開催、明治40年作「進化」から昭和29年作まで50余点に亘る作品から87点を選別陳列す。第10回日展出品「立っている」。第2回日本彫塑展出品「F子の首」、同年作「市村高彦像」「日田市慰霊塔」(設計)「古橋記念碑」「山田選手の首」。
昭和30年 第11回日展出品「友」。第2回日彫展出品「主婦の友石川翁像」。同年作「郷誠之助翁」(工業クラブ)「小川浪平翁」(日立記念館)「竹中藤左衛門」(竹中工務店)「石橋正二郎」(柳川文化センター)各胸像。
昭和31年 日本芸術院第二部長となる。第12回日展出品「青年像」。第3回日彫展出品「女の首」。三越会員天出品「この一投」「瑞狛」「木彫」、同年作「辛島浅彦翁」(東洋レーヨン工場)「藤原銀次郎翁」(慶応大学)各胸像、「末光千代太郎翁頭像」(伊予銀行)
昭和32年 第13回日展出品「H氏の像」。
昭和33年 「太田道灌銅像」(都庁新庁舎前・2月24日除幕式挙行)。社団法人・日展主催の第1回日本美術展に顧問として「愛猫病めり」出品。

出 典:『日本美術年鑑』昭和40年版(128-131頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「朝倉文夫」『日本美術年鑑』昭和40年版(128-131頁)
例)「朝倉文夫 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9034.html(閲覧日 2024-04-20)

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