佐藤清蔵

没年月日:1963/09/14
分野:, (彫)

 彫刻家、元日本美術院同人、日本芸術院会員の佐藤清蔵は、9月14日午前2時15分、老衰のため京都市で逝去した。享年75才。旧号、朝山。号、阿吽洞・玄々。明治21年8月19日福島県相馬郡に生まれた。幼時から父祖相伝の宮彫師の家業たる木彫を父と伯父に学び、のち出京して18才頃から山崎朝雲に師事した。大正3年再興日本美術院の第1回展に際して同人となり、院展木彫の中心的存在として多くのすぐれた問題作を次々と発表した。その主なものに、「呪咀」「シャクンタラ姫とドウシャンタ王」「釈迦に幻れた魔王の女」など、豊満で官能的な作品をつくり、一脈インド彫刻にも通うような呪術的で神秘的な作調を示した。大正11年日本美術院から派遣されてフランスに留学し、ブールデルに師事し、またルーブル美術館などで古典彫刻を研究して同13年帰国した。「哺牛」「田中氏像」「牝猫」「鷹」など、西欧留学によって得た西洋近代彫刻への咀嚼と彼の内にもある伝統的要素とがよく結晶した作調が生まれてきた。その後松田改組の帝展に、モニュメンタルな力作「八咫烏」を発表、また新文展の審査委員となったが、自作の発表はなく、むしろ昭和14年11月大日本護国会で紀元2600年紀念事業として計画した和気清麿銅像の建立に、朝倉文夫、西村西望とともに原型の依嘱をうけ、三者競作のかたちで製作した同像の採用実現や、戦後三越岩瀬社長の懇望によって約10年の歳月を費した労作「天女像」(昭和35年4月完成除幕)などの衆目の話題作が、彼の晩期を飾る仕事となった。
略年譜
明治21年 8月18日、福島県相馬郡に生まれる。生家は代々宮彫師で、この家業を父や伯父に学んだ。本名清蔵、号、朝山(山崎朝雲に師事した頃より昭和14年頃まで)、阿吽洞、玄々(この両雅号は大体、昭和21年以降より)18才より木彫家山崎朝雲に師事する。
大正2年 「問答(悉達多太子と婆羅門僧像)」を製作。
大正3年 10月、再興日本美術院第1回展に「呪咀」「野人」「シャクンタラ姫」を出品する。10月24日、平櫛田中内藤伸吉田白嶺とともに、日本美術院同人に推される。他に「聖徳太子像」「婆羅門像<行者>」を制作。
大正4年 9月、第2回院展に「シャクンタラ姫とドウシャンタ王」「阿具尼」「シャクンタラ姫」を出品する。他に「嵐」(塑像)を制作。
大正7年 9月、第5回院展に「愛染<慾染>」を出品する。
大正8年 9月、第6回院展に「上宮太子」「釈迦に幻れた魔王の女<三魔>」を出品、他に「冬日行」を制作。
大正9年 「閑来」「蘇東坡」「巣鶏」を制作。
大正11年 9月、第9回院展に「木花咲耶姫」を出品。9月2日に創立25年記念祭を行った日本美術院からフランスに派遣される。(同人として、他に小林古径前田青邨が同行)。アントワーヌ・ブールデルについて彫刻を学び、ルーブル美術館などで古典を研究する。
大正13年 7月22日帰朝。「イタリーの女」「インディアン」「悲しきエトランゼの娘」(以上素描)「エジプト彫刻断片」「眼」「影」「憂」(以上木版画)などを制作。
9月、第12回院展に「女の顔その一」「女の顔その二」「或る構図の一部<女>」、「男」(以上ブロンズ)を出品する。他に「童女」(木版画)。
大正15年 5月、聖徳太子奉讃展に「或る構図の一部の二」を出品。9月、第13回院展に「哺牛」「ベコ」「牛」を出品する。その他「裸女」(塑像)「寒山拾得」を制作。その頃より、現在の大田区に居住。
昭和2年 9月、第14回院展に「画家の像<画人>」、「青年の顔」(ともにブロンズ)、「青年」(塑像)を出品。他に麋(木彫下絵素描)二図など。
昭和3年 9月、第15回院展に「田中氏像」(ブロンズ)、「牝猫」「冬眠」「銀鳩の子」「鳩巣」(木心乾漆)を出品する。
昭和4年 3月、院第14回試作展に「銀鳩」を出品する。9月、第16回院展に「筍」「猫<動(猫と鴨)>」「蜥蜴」を出品、他に「双鹿」など。
昭和5年 9月、第17回院展に「鷹<山上(鷹)>」「鼠」を出品。他に「蒼鷹」「大黒」「猫」。
昭和6年 9月、第18回院展に「鷹<飛(鷹)>」「白菜」「麋」「鳩<山鳩>」を出品する。他に「鷹(習作)」「銀鳩」「山鳩」「琵琶」など。
昭和8年 皇太子誕生を祝して「鷹」(浮彫)を制作献上。他に「青鳩」など。
昭和10年 3月、東京府美術館10周年記念展に「蔬筍」(昭和4年院展出品の「筍」と昭和6年院展出品の「白菜」を一組にしたもの)を出品する。
5月、松田改組帝国美術院第二部会員に平櫛田中とともに任命される。11月、日本美術院より図録「朝山彫刻集」が刊行される。
昭和11年 2月、第1回改組帝展に「八咫烏」を出品、政府買上げとなる。
昭和12年 4月、明治・大正・昭和三聖代名作美術展に「牝猫」(昭和3年、第15回院展出)が出品される。6月、帝国芸術院会員となる。10月、第1回文部省美術展第三部の審査委員に任命される。
昭和14年 10月、第3回文部省美術展第三部の審査委員に任命される。11月、大日本護国会では紀元2600年記念事業として和気清麿銅像の建立を計画、北村西望朝倉文夫、佐藤朝山の3名に原型を依嘱し、その中から一つを選出することになったが、北村西望朝倉文夫はともに辞退し、朝山の制作だけが実現することになった。
昭和15年 12月18日和気清麿銅像除幕(宮城の濠端)。この頃より朝山号を廃し、本名の清蔵を名のる。
昭和16年 「二宮尊徳像」(帝国農業会より献上)。
昭和20年 5月24日に戦災で馬込のアトリエが焼失、「八咫烏」など多くの作品を失い、無常感にとらわれて、郷里福島県山中の神社へ疎開隠遁する。終戦後、高島屋の招待により兵庫県西宮市甲東園芝川山荘に移る。
昭和22年 「大黒天」(第13回清光会)を制作。この頃より、京都市右京区に定住する。
昭和24年 「大黒天像」「鼠像」などを制作。
昭和25年 「柿」(置物)、「聖大黒天」、「鼠」(置物)など。この頃より玄々、阿吽洞の号を用いる。
昭和26年 「大慈大悲救世観音菩薩像」「栗鼠」(置物)、「大黒天」「笑門福来」などを制作。
昭和27年 「山兎」「蒼鷹」(置物)、「巣籠鶴」(置物)、「鶴」(置物)、などを制作。
昭和28年 「宝の小槌」「大慈大悲救世観音菩薩像」「笑門福来」「福来面」(置物)、「山彦」などを制作。
昭和29年 「麝香猫」「神狗」などを制作。
昭和35年 4月、約10年の歳月を費した労作「天女像」三越本店で除幕される。なお同店で<天女像完成記念佐藤玄々名品展>開かれる。
昭和38年 9月14日、京都市で老衰のため逝去。

出 典:『日本美術年鑑』昭和39年版(136-137頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「佐藤清蔵」が含まれます。
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