山田守

没年月日:1966/06/13
分野:, (建)

東海大学教授、山田守建築設計事務所長の山田守は、6月13日午前4時15分、胃がんのため死去した。山田守は、大正9年、東大建築学科を卒業、分離派建築会の主要なメンバーとして活躍し、逓信省営繕技師として今日の逓信建築の基礎を築き、昭和初年には、関東大震災後の橋梁復興に尽力し、戦後は東京厚生年金病院をはじめとする病院建築の発展と近代化に大きな功績を残した。
年譜
明治27年(1894) 4月19日、岐阜県羽島郡に生れる。
明治45年 大垣中学校卒業。
大正6年 第四高等学校卒業。
大正9年 東京帝国大学工学部建築学科を卒業、分離派建築会を組織、逓信省営繕技師となる。
大正13年 門司電話局(門司市)。
大正14年 東京中央電信局(東京・大手町)。
昭和2年 大阪中央電信局(大阪・堂島)。
昭和3年 復興院橋梁課嘱託となり永代橋、清州橋など隅田川6大橋、及びお茶の水聖橋の設計に関与する。
昭和4年 中国、シンガポール、印度、イタリア、フランス、スイス、ドイツ、チェコ、オーストリー、ハンガリーなどヨーロッパ諸国及びアメリカに出張、その間フランクフルト・アム・マインにおいて開催された第2回国際新建築会議に出席。
昭和5年 名古屋中央電話局(名古屋市)。
昭和9年 宇部電話局(宇部市)。
昭和10年 日本技術協会常務理事となる、以来科学技術の教育・普及につとめる。
昭和11年 熊本貯金局、神戸中央電話局。
昭和12年 東京逓信病院竣工、これに対して逓信協会賞を受ける。広島貯金局。
昭和13年 大阪逓信病院(大阪・桃谷)。
昭和15年 逓信省営繕課長に就任。
昭和17年 現東海大学の前身航空科学専門学校の設立に協力する。
昭和19年 国防電話局(東京・永田町)勲三等瑞宝章をうける。
昭和20年 逓信省を退官する。
昭和21年 通信建設工業株式会社を設立、専務取締役となる。
昭和24年 通信建設工業株式会社を解散、山田守建築事務所を開設する。
昭和26年 東海大学理事に就任し、工学部建設工学科主任教授となる。
昭和28年 東京厚生年金病院(東京・飯田橋)文部大臣賞を受ける、防衛庁東京中央病院(東京・三宿)。
昭和29年 大阪厚生年金病院、建築学会賞をうける。
昭和30年 九州厚生年金病院(北九州市)。
昭和31年 大阪市立医科大付属病院(大阪・天王寺)。
昭和32年 逓信建築の功労に対し前島賞をうける。厚生年金保険庁舎(東京・杉並)長沢浄水場。
昭和33年 熊本逓信病院(熊本市)。
昭和35年 メキシコ建築家協会より外国特別会員に推される。社会保険横浜中央病院(横浜市)、国際電信電話研究所(東京・恵比寿)、AOAビル(東京・青山)、市立岸和田市民病院(岸和田市)。
昭和37年 大阪船員保険病院(大阪・港)、大和郡山市庁舎、郡山綜合病院(奈良県郡山市)。
昭和38年 日本武道館の設計競技に当選。
昭和39年 藍綬褒章を受ける。日本武道館(東京・千代田区)、京都タワー・ビル(京都市)、市立清水綜合病院(清水市)。
昭和40年 勲三等旭日中綬章をうける。玉造整形外科病院(島根県)、ヨーロッパ諸国、アメリカ、ブラジルに建築調査旅行。
昭和41年 4月頃より健康を害し療養、6月13日逝去。

出 典:『日本美術年鑑』昭和42年版(144頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「山田守」『日本美術年鑑』昭和42年版(144頁)
例)「山田守 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9018.html(閲覧日 2024-04-20)

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