富本憲吉

没年月日:1963/06/08
分野:, (陶)

京都市立美術大学々長、文化勲章受章者富本憲吉は、6月8日午前9時、大阪府立成人病センターで肺癌のため逝去した。享年78才。明治19年6月5日奈良県生駒郡に、富本豊吉の長男として生れた。東京美術学校図案科建築部を経て、ロンドンに留学して室内装飾を学んだ。明治44年帰国し、翌年イギリス人バーナード・リーチと共に六世尾形乾山に師事して陶芸の道に入った。のち郷里の安堵村、つづいて東京世田谷に窯をきずいて制作にふけった。昭和2年には国画創作協会に工芸部を設け、同9年帝国美術院会員、同12年帝国芸術院会員に推された。戦後、芸術院会員、母校教授を辞して京都に移り、制作にはげむと共に新匠工芸会(のち新匠会と改称)を結成し、また京都市立美術大学の教授となり、最晩年には学長に推された。昭和36年、永年陶芸界につくした功績によって文化勲章を授けられた。はじめ、柳宗悦等の民芸運動に参加したが、のちには白磁或いは金銀彩の豪華な作品を創造し、極めて秀れた作品が多い。併し、晩年自己の一品制作にあきたらず、陶工をして模造品を作らせて市販したことは、かつてウィリアム・モーリスに私淑した精神を生かしたものである。
略年譜
明治19年 奈良県生駒郡、富本豊吉長男として生れ。家は法隆寺々侍の出であった。
明治37年 奈良県立郡山中学校を卒業、東京美術学校図案科建築部に入学。
明治41年 在学中卒業制作を提出して、英国に室内装飾研究のため私費留学した。ロンドン市立セントラル・スクール・オブ・アーツのステンドグラス科に入学、かたわら古代ペルシャ陶器、エジプト美術を研究した。英国留学はウィリアム・モーリスの思想と工芸の仕事に興味をもったためという。
明治42年 東京美術学校図案科建築部卒業。
明治43年 回教建築研究のため、農商務省より印度派遣。
明治44年 英国より帰国。暫時清水組にて建築設計に従事、のち木版画、染織に専心、在日中の英人バーナード・リーチと親交を結ぶ。
明治45年 バーナード・リーチと共に楽焼を始める。(六世尾形乾山をリーチに紹介し、その通訳をしているうちに、自分でもはじめるようになった。)
大正2年 郷里安堵村に楽焼窯を築く。
大正3年 東京で第1回楽焼試作展をひらく(楽焼研究も堂に入り始め、赤楽地に自宅井戸端の柘榴を線彫りにした花瓶等多く作成。
大正4年 安堵村に本窯を築く。
大正5年 安堵村周辺の風景の中より「竹林月夜」「大和川急雨」「曲る道」等と題する模様を創作する。
大正8年 信楽焼研究のため近江へゆく。日常陶器の多量生産に関心があった。染附、白磁と手がけ始める。
大正9年 肥前波佐見焼研究のため、家族を長崎に移し、中尾山波佐見、有田窯へ通う。
大正11年頃 染附、老樹図陶板の作がある。陶板なる語を創案する。
大正12年 朝鮮に赴き、清涼里、浅川巧宅に滞在し、李朝白磁、象嵌等研究する。
大正15年 東京府北多摩郡に本窯を移し居住。野草花、洋花、小鳥などを写生して模様化し、染附、象嵌、技臘、色絵等にて大鉢、大皿、中皿、飾筥、花生等に昭和21年頃まで絵付する。
昭和2年 4月、第6回国画創作協会に工芸部、彫刻部が新設され、すでに会員となっていたので工芸部を担当した。
昭和3年 国画創作協会第1部(日本画部)解散。他の部門は国画会と改称して再出発した。
昭和9年 帝国美術院会員となる。(この間東京の冬季の陶土凍結をさけ、九谷、信楽、益子、波佐見、京都、瀬戸等各地の陶業を研究、九谷では10カ月滞在して本格的上絵の研究をすすめる。)
昭和19年 東京美術学校教授となる。
昭和20年 学生と共に高山市に疎開し、終戦と同時に帰京、芸術院会員、東京美術学校教授等の一切の公職を辞退して、郷里の旧居に移り水墨画にしたしむ。
昭和22年 国画会を脱退し、新匠工芸会を結成する。
昭和23年 第1回新匠工芸会開催(東京高島屋)
昭和24年 京都市立美術専門学校客員教授となる。京都市上京区に居住。花「白雲悠々」「風花雪月」等の文字を模様として作品に入れ始める。
昭和25年 京都市立美術大学教授となる。この頃米国在の日本大使館に買上げの金銀彩蓋付壺に始めて銀に白金を混ずる事に成功、作品に色絵金銀彩椿図陶板(大原美術館蔵)、自作陶器図案50図画帖(大原美術館蔵)、自作陶器図案百図画帖(岐阜某氏蔵)等がある。
昭和26年 新匠工芸会で新匠会と改称、羊歯を連続模様にすることに約1年かかって成功。作品に金銀彩羊歯文蓋付飾壺(文化財保護委員会蔵)、色絵四辨花蓋付飾壺(英国日本大使館買上)等がある。
昭和30年 第1回の重要無形文化財保持者(色絵磁器)の設定をうける。11月作陶45周年記念展を東京高島屋に開く。作品に金銀彩四辨花模様八角大飾筥(文化財保護委員会蔵)等がある。
昭和35年 作品に金銀彩羊歯文蓋附飾壺、色絵四辨花飾筥、大飾皿、染附竹林月夜大飾皿(各宮内庁買上げ)等がある。
昭和36年 文化勲章を授与される。作陶50年記念展を東京高島屋で開く。作品に金銀彩羊歯文飾筥、染附絵替り組皿5枚、染附色絵並用絵替り組皿5枚(各文化財保護委員会蔵)等がある。
昭和37年 6月、京都市東山区に移る。作品に金銀彩四辨花飾筥(イタリー、ローマ・アカデミー蔵)、金銀彩描きおこし四辨花文蓋附飾壺(文化財保護委員会蔵)等がある。
昭和38年 3月、京都市立美術大学教授を定年退職。5月同大学学長となる。6月8日肺癌のため死去。78才。叙従三位。勲二等旭日重光章を授与される。
昭和39年 6、7月大阪大丸、京都伊勢丹、倉敷大原美術館に於いて「富本憲吉陶芸展」開催。
著作目録
富本憲吉模様集(版画) 大正4年 田中屋
富本憲吉模様集 大正12年 自家限定版
窯辺雑記 大正14年 文化生活研究会
富本憲吉模様集 昭和2年 文化生活研究会
楽焼工程 昭和5年 采文閣
模様寸感(自刷) 昭和6年 自家限定版
富本憲吉陶器集 昭和8年 自家限定版
製陶余録 昭和15年 昭森社
陶器 昭和23年 朝日新聞社
富本憲吉陶器集 昭和31年 美術出版社
富本憲吉模様選集 昭和32年 中央公論社
自選富本憲吉作品集 昭和37年 朝日新聞社

出 典:『日本美術年鑑』昭和39年版(132-133頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「富本憲吉」『日本美術年鑑』昭和39年版(132-133頁)
例)「富本憲吉 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9011.html(閲覧日 2024-04-24)

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