河井寛次郎

没年月日:1966/11/18
分野:, (工)

陶芸家の河井寛次郎は、11月18日午後1時5分、京都市東山区の専売公社京都病院で老衰のため死去した。享年76才。河井寛次郎は、柳宗悦浜田庄司らとともに昭和初年から民芸運動に挺身し、民族的で健康な民衆的な陶芸を主張し、釉薬の研究などにもすぐれた業績をあげた。ロンドン、ニューヨークなどでの個展や昭和32年ミラノ、トリエンナーレ国際工芸展における最高賞受賞など国際的にも著名であった。
年譜
明治23年(1890) 8月24日、島根県能義郡安来町(現、安来市)に生る。
明治43年 松江中学校卒業、東京高等工業学校(現、東京工大)窯業科に入学。
明治44年 赤坂、三会堂で、バーナード・リーチの新作展を見て感激、その後間もなくリーチを桜木町の寓居に訪う。
大正3年 東京高等工業学校卒業、(前年、腸チフスを病み、一カ年休学)。
京都市立陶磁器試験所に入る。
大正5年 同試験所に浜田庄司入所、爾後、研究、制作をともに励む。
大正6年 試験所を辞し、清水六兵衛の顧問となり、各種の釉薬をつくる。浜田とともに琉球及び九州諸窯を視察す。
大正8年 浜田とともに朝鮮、満州、大連等を旅す。
大正9年 山岡千太郎の好意により、京都、五条坂に窯を築き鐘溪窯と名づく。
三上やす(現、つねと改名)と結婚。
大正10年 東京、大阪両高島屋で、当時同店の宣伝部長川勝堅一の斡旋により、宋、元、明、李朝等古陶磁の手法を逐った作品「第一回創作陶磁展」を開き、絶讃をうける。(爾後、年次展を開催)また、東京、流逸荘で「李朝陶磁展」を見、李朝陶磁器の真髄に触れるとともに、この会を主催した柳宗悦を知る。
大正11年 前年中の快心作の写真集『鐘溪窯第一輯』を刊行。
大正12年 黒板勝美博士の知遇を受け、また大毎京都支局長、岩井武俊を識る。創作についての反省始まる。
大正13年 イギリスより帰朝した浜田を介し、柳宗悦との親交始まる。
恩賜京都博物館で「陶器の所産心」と題して講演を行ない、新たな所信を披瀝す。
大正14年 第5回東京高島屋展に用途を重んじた新しい作風を示す。
大正15年 柳、浜田とともに「日本民芸美術館」設立の念願起こす。黒板博士の努力で「河井氏後援会」生る。作家としての一大転換機をむかえ、作品の発表を差し控えて、制作に専念す。
昭和2年 「河井氏後援会」主催の作品展を、東京丸の内の日本工業倶楽部で開く。柳編纂の『雑器の美』に「陶器の所産心」を掲載す。
昭和3年 御大礼記念国産振興博覧会に、柳、浜田、その他日本民芸美術館同人とともに、民芸品で家具調度を整え「民芸館」と名づけた建物を新築出品す。
昭和4年 帝国美術院より院展無鑑査として推薦さる。3カ年の沈黙ののち、東京高島屋で、第6回作品展覧会を開く。
昭和5年 米国ハーヴァード現代芸術協会主催の「日英現代工芸品展覧会」に出品。大阪高島屋主催大阪美術倶楽部で「作陶10年記念展」を催す。
昭和6年 柳、浜田とともに雑誌『工芸』を発刊。柳とともに鳥取、島根を旅し、鳥取の牛の戸窯の開窯に立会い、松江では郷里の工人を指導す。この年の展覧会に色絵を出品す。
昭和7年 ロンドンの山中商会支店で個展を開く。練上手、抜蝋の作を出品。
昭和8年 日本民芸美術館主催の東京高島屋での「綜合新工芸展覧会」に作品を出品す。東京、上野で開催の第8回国展に賛助出品す。倉敷文化協会主催の個展を倉敷市商工会議所で開く。柳とともに現代民窯展準備のため、中国、九州の諸窯を歴訪す。
昭和9年 東京、上野の松坂屋で開催の「陶匠十家展」に出品。バーナード・リーチを自窯にむかえて、ともに制作す。東京高島屋で開催の「現代日本民芸展」にモデルルームとして浜田の食堂、リーチの書斎とともに台所を設計し出陳す。
昭和10年 再度リーチを自窯にむかえる。大原孫三郎翁より柳に対し、民芸美術館設立の資金寄付の申出をうけ、協議に参画す。この年陶硯の制作に没頭す。柳と四国に旅す。
昭和11年 東京高島屋で陶硯百種展を開く。柳、浜田とともに朝鮮を旅し会寧を経て満州吉林にはいる。大阪高島屋で陶硯展を開く。『工芸』68号は河井寛次郎特輯号を刊行。東京駒場に、「財団法人日本民芸館」を設立。理事となる。
昭和12年 パリ万国博覧会に出品の鉄辰砂草花丸文大壺がグランプリを受賞す。再度、柳、浜田とともに朝鮮を旅す。
昭和14年 民芸協会同人とともに沖縄に渡島す。米人
ギルバートソンは2カ年間作陶のため弟子入りす。
昭和15年 銀座鳩居堂で富本、浜田、河井の「三人展」を催しこの機会に三人の作品図録を出版す。東京、大阪両高島屋で「作陶20周年展」を催す。
昭和16年 柳、浜田とともに華北を旅す。
昭和18年 東西高島屋で浜田との二人展開く。
昭和19~20年 戦火はげしくほとんど窯立たず、文筆に没頭す。棟方志功は版画にて鐘溪窯を賛える「鐘溪版画柵」24図を制作す。
昭和21年 長女、良に養嗣子、博(現在博次と改名)をむかえる。高島屋での個展復活。
昭和22年 寛次郎詞「火の願ひ」を棟方志功版画にて制作47図を完成す。
自詞を自刻した陶版「いのちの窓」を完成。酒瓶を主とした個展を開く。
昭和23年 『化粧陶器』『いのちの窓』を出版。陶版「いのちの窓」の個展を開く。
昭和24年 日本民芸館西館で「辰砂について」と題し講演を行なう。柳著『河井寛次郎』を札幌の鶴文庫より出版。この年から異なった角度による不定形の造型始まる。
昭和25年 「還暦記念展」を東京、大阪両高島屋で開く。日本民芸館では、館所蔵の河井作品300点を陳列、還暦記念展とす。
昭和26年 フランスで開催の陶器展に出品。この頃しきりに木彫を試作す。
昭和27年 仏人ラルー入洛し、1カ年余弟子入りす。東京高島屋増築記念として富本憲吉、浜田とともに「三人展」を開く。
昭和28年 朝日新聞社より『火の誓ひ』出版。『いのちの窓』の英訳を刊行。
夏、リーチ、柳、浜田とともに共著『陶器の本』(仮称)の原稿執筆のため信州松本在霞山荘に滞在。東京高島屋主催「作陶40年展」を東京の光輪閣、大阪高島屋で催す。陳列作品700点。
昭和29年 大丸神戸店でリーチ、浜田と「陶芸3人展」を開く。東京高島屋でリーチ、富本、浜田とともに「陶芸4人展」を催す。泥刷毛目の手法を制作。前年よりひきつづき共著『陶器の本』の原稿執筆のため、春、千葉県房州、夏信州松本在霞山荘にて、リーチ、柳、浜田とともに滞在す。
昭和31年 日本民芸館本館建物修理のため、浜田とともに抹茶碗を寄贈し、柳の書軸を加えて、民芸館にて頒布会を行う。東京、大阪、両高島屋で個展を開催。20年振りに新型陶硯、練り上げ手、陶板花手文の筒描き始む。
昭和32年 朝日新聞社主催で、京都、東京両高島屋および名古屋のオリエンタル中村で「陶芸40年展」を開く。ミラノ、トリエンナーレ展で「花文菱形扁壺」グランプリを受賞。京都の民芸使節団をひきいて沖縄に渡島。
昭和33年 木彫で手、人物像、動く手、動く足、面等を造る。またこれらで陶土の原型をつくる。一方幾何学的貼付陶文の試作、色釉を使った打薬の手法を始む。腸閉塞と腸癒着のため大手術をうける。
昭和34年 木彫の制作つづく。秋の高島屋展に木彫の面20余点を出品。三彩打薬の手法漸く安定し、壺、大鉢、茶碗、皿等の製作に打ち込む。緑釉および陶彫の試作始まる。北海道、青盤舎で柳、浜田との「三人展」開く。
昭和36年 大原美術館は四人の陶匠(富本、リーチ、河井、浜田)作品の常時陳列施設として「陶器館」を開設。
昭和37年 雑誌『民芸』1月号に「六十年前の今」の第1回を掲載、第59回まで続く。和蘭のマーガレット王女来訪。天満屋広島店で、個展を開く。
昭和38年 名古屋オリエンタル中村、天満屋岡山店で個展を開く。
昭和39年 東京、大阪両高島屋および名古屋オリエンタル中村で個展開く。
昭和40年 大原美術館は『河井寛次郎作品集』の刊行を企画。天満屋広島店で個展を開き、広島より郷里安来に旅す。また天満屋福山店の「日本民芸館同人陶器展」に賛助出品す。
昭和41年 京都高島屋で「寛次郎、博次、武一三人展」を催す。名古屋オリエンタル中村で「寛次郎博次父子展」を開く。天満屋岡山店、東西両高島屋でそれぞれ個展を開く。6月頃より躰の衰弱はげしく、11月2日、専売公社病院に入院、11月18日午後1時5分永眠す。12月1日紫野大徳寺山内の真珠庵で日本民芸協会葬を執行。法名、清心院鐘溪寛仲居士。享年77才。
昭和42年 3月、京都府立総合資料館で、河井寛次郎コレクション約300点を出品し「民芸展」を催す。5月、東西高島屋で、6月、大原美術館で「河井寛次郎遺作展」を催す。またこの年に、大原美術館より大型図録、『河井寛次郎作品集』を出版。

出 典:『日本美術年鑑』昭和42年版(149-150頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「河井寛次郎」『日本美術年鑑』昭和42年版(149-150頁)
例)「河井寛次郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8989.html(閲覧日 2024-03-29)

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