和田英作

没年月日:1959/01/03
分野:, (洋)

 帝室技芸員、日本芸術院会員で洋画壇の長老和田英作は、1月3日静岡県清水市に於いて、膀胱癌のため没した。享年83歳。同10日明治学院講堂で葬儀を行つた。明治7年12月23日鹿児島県に生まれ、幼くして上京、明治学院に学び、上杉熊松の指導を受けた。同24年退学して画業に専心し、曾山幸彦、原田直次郎に学び、次いで天真道場に入つて黒田清輝、久米桂一郎の指導を受けた。同29年東京美術学校助教授に任ぜられたが、間もなく辞して同校西洋画科に入学、同30年7月修了、同校助手となつた。同29年白馬会の創立に参加して会員となつた。同32年ドイツに赴き、同33年文部省留学生となつてパリに至り、アカデミイ・コラロッシに入学してラファエル・コランの指導を受けた。同36年帰国し、母校の教授に任ぜられた。同40年文部省美術審査委員会委員、大正8年帝国美術院会員となつた。同10年ヨーロッパに出張し、翌年帰国した。昭和7年東京美術学校々長に任ぜられ、同11年辞し、同校名誉教授の称号を受けた。この間、同9年帝室技芸員を拝命した。同12年帝国芸術院会員を仰付けられた。同18年多年の功績に対し文化勲章を授与され、同26年文化功労者に選ばれた。
 その主な作品には初期の「渡頭の夕暮」「海辺の早春」「思郷」「こだま」、中期の「斜陽」や原法学博士をはじめ名士の肖像があり、晩期のものには「上の御堂にて」「夏雲」などがある。いずれも外光派的写実で、その堅実な油彩技法は稀にみるところであつた。また、これらのほか、帝国劇場をはじめいくつかの装飾壁画にも力作を遺した。

略年譜
明治7年 12月23日鹿児島県肝属郡に生る。
明治12年頃 両親にともなわれて上京、麻布に住む。父秀豊は海軍兵学校の英語の教官となつた。
明治20年 明治学院に入学、同窓三宅克己と上杉熊松に洋画の初歩を学ぶ。
明治24年 退学。上杉の紹介で曾山幸彦の門に入る。同門に岡田三郎助中沢弘光三宅克己矢崎千代二などがあつた。
明治25年 曾山逝去のため1月原田直次郎の鍾美館に転じた。明治美術会展に「秋ノ景色」(水彩)出品。
明治26年 洋画修学のかたわら久保田米僊に日本画を学ぶ。明治美術会展に「人体習作」(油絵)「景色」(同)を出品。
明治27年 9月黒田清輝、久米桂一郎が新設した天真道場に学ぶ。
明治28年 7月第4回内国勧業博覧会に「海辺の早春」出品、妙技二等賞を受く。明治美術会展に「新柳」「海辺早春」11点出品。
明治29年 9月東京美術学校助教授に任ぜられた。6月白馬会の創立に参加して会員となる。第1回白馬会展に「麦の秋」「虹」「矢口のわたし」等19点出品。
明治30年 2月本官を免ぜられ、東京美術学校西洋画科選科第4年級に入学、7月修了。10月同科教場助手を命ぜらる。第2回白馬会展に「快晴」「渡頭の夕暮」等30点出品。
明治31年 日本美術研究のため来朝のベルリン博物館のアドルフ・フィッシャーを案内して約半年間畿内、九州、北陸等を巡遊。第3回白馬会展に「三保の富士」「物おもひ」「機織」等21点出品。
明治32年 5月フィッシャーの依嘱により、その蒐集の日本美術品の目録作成のためベルリンに赴く。第4回白馬会展に「甲板」「ミッドルス・バロオ」等6点出品。
明治33年 3月文部省留学生となり、パリに赴き、コラロッシ研究所に入つてラファエル・コランの指導を受ける。パリ万国博覧会に旧作「渡頭の夕暮」「機織」を出品、褒状を受く。第5回白馬会展に「肖像」「風景」等を出品。
明治34年 第6回白馬会展に「ルュクサンブール」「池」を出品。
明治35年 サロンに「思郷」出品、入選。第7回白馬会展に「冬の池畔」「半身」「婦人読書」等出品。
明治36年 6月イタリアを経由、帰国。10月東京美術学校教授に任ぜらる。第5回内国観業博覧会に「こだま」出品、二等賞を受く。第8回白馬会に「思郷」「肖像」「夕暮の三保」「夕凪」出品。
明治37年 第9回白馬会展に「有るかなきかのとげ」「箕作博士肖像」出品。米国セント・ルイス万国博覧会に「風景」出品。
明治38年 白馬会創立十年記念展に「くものおこなひ」「夕空」のほか旧作「麦の秋」「編物」等19点出品。
明治40年 3月東京府勧業博覧会審査官、8月文部省美術審査委員会委員となる(以後大正7年まで)。東京府勧業博覧会に「斜陽」出品1等賞を受く。第11回白馬会展に「肖像」「風景」出品。高橋滋子と結婚。
明治41年 第2回文展に「おうな」出品。
明治42年 第3回文展に「角田市区改正局長肖像」「原法学博士肖像」出品。
明治43年 東京美術及美術工芸品展覧会評議員、同展第2類出品鑑別委員、伊太利万国博覧会美術品出品鑑査委員となる。第4回文展に「薔薇」「まとものあかり」「肖像」出品。
明治44年 第5回文展に「小金井博士肖像」「曇り日」「草花」出品。帝国劇場壁画製作。
明治45年 第6回文展に「石黒男爵肖像」「H夫人肖像」出品。
大正3年 4月東京大正博覧会審査官を嘱託さる。同博覧会に「筧の水」、第8回文展に「黄昏」「赤い燐寸」、光風会展に「漁村」出品。赤坂離宮及び中央停車場の壁画製作。
大正4年 第9回文展に「佐用姫」出品。
大正5年 第10回文展に「あけちかし」出品。
大正7年 第12回文展に「壁画落慶之図」出品。
大正8年 9月帝国美術院会員を仰付けらる。第1回帝展に「読了りたる物語」出品。
大正9年 第2回帝展に「渋沢子爵像」出品。慶応義塾大学のために福沢諭吉像製作。
大正10年 4月欧州へ出張を命ぜらる。7月勅任官を以て待遇さる。
大正11年 1月以後フランス官設美術展覧会へ本邦美術品出陳に関する事務に従事。6月叙勲4等瑞宝章。9月帰国。
大正12年 フランス政府からオフイシエ・ド・ロルドル・ナショナル・ラ・レジョン・ドノール勲章を受く。フランス美術展準備委員、第2回朝鮮美術審査委員会委員を嘱託さる。
大正13年 第5回帝展に「大住嘯風君肖像」「奈良人形」
大正14年 鹿児島県より東京府へ転籍。第6回帝展に「森律子肖像」「野遊」、光風会展に「花」出品。
大正15年 第7回帝展に「松林」、聖徳太子奉讃展に「父の肖像」、光風会展に「薔薇」出品。なお三越本店で個展開催「ミモザ」等50余点。
昭和2年 明治大正名作展に「こだま」「渡頭の夕暮」「角田市区改正局長」「海辺早春」陳列さる。燕巣会展に「黒き瓶の薔薇」出品。
昭和3年 第9回帝展に「肖像」、燕巣会に「冬の日」出品。
昭和4年 三越本店にて個展。
昭和5年 第11回帝展に「早春」、第2回聖徳太子奉讃展に「花」、光風会展に「初冬の湖畔」出品。
昭和6年 第12回帝展に「黄衣の少女」出品。
昭和7年 5月東京美術学校長に任ぜらる。
昭和8年 史蹟名勝天然記念物調査委員会委員となる。
昭和9年 6月帝室技芸員を命ぜらる。
昭和10年 6月美術研究所々長事務取扱を命ぜらる。
昭和11年 6月東京美術学校長を辞し、同校名誉教授の称号を受く。聖徳記念絵画館壁画「憲法発布記念式」を完成。宮内省御下命の「山本内閣親任式」をえがく。三越本店にて個展、「湖畔の暮色」等19点陳列、青樹社洋画展に「薔薇」出品。
昭和12年 帝国芸術院会員を仰付けらる。明治、大正、昭和三聖代名作展(大阪)に「静物」「こだま」「大住嘯風君肖像」陳列さる。
昭和13年 三越に個展を開き、「溪流」「湖畔の春景」等、上弦会に「細流」「蘭花」等4点出品。
昭和14年 法隆寺上宮王院本尊大厨子建立奉讃展に「琵琶湖畔の春」出品。大阪阪急百貨店にて個展、「富士」ほか約20点出品。
昭和15年 大阪青樹社にて個展「カーネーション」「雲雀啼くころ」等13点出品。
昭和16年 三越本店に個展、「神の森」等出品。
昭和18年 文化勲章を授与。
昭和19年 戦艦献納帝国芸術院会員展に「山麓の春」出品。
昭和20年 奈良県郡山に疎開、次いで愛知県知立に移る。
昭和21年 第1回日展に「上の御堂にて」出品。
昭和22年 第3回日展に「曙」、現代美術展(東京都・朝日新聞社共催)に「凉蔭」出品。
昭和25年 第6回日展に「夏雲」出品。
昭和26年 静岡県清水市に移る。文化功労者にえらばれる。また精養軒にて喜寿祝賀会。大阪及び名古屋美交社にて喜寿展。
昭和27年 大阪美交社に個展。
昭和28年 日本芸術院第1部長に選ばる。同上
昭和33年 高島屋美術部50年記念展に「三保の不士」出品。
昭和34年 1月3日逝去。勲1等瑞宝章大綬を拝受。

出 典:『日本美術年鑑』昭和35年版(137-139頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「和田英作」が含まれます。
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