川合玉堂

没年月日:1957/06/30
分野:, (日)

日本画家、日本芸術院会員川合玉堂は、6月30日心臓喘息のため東京都青梅市の自宅で逝去した。87歳。明治6年11月24日、愛知県葉栗郡に生れた。本名は芳三郎、晩年の別号に偶庵がある。明治20年14歳の時京都に出で、望月玉泉の門に入り玉舟と号した。同23年幸野楳嶺の門に移つて玉堂と改め、この年の第3回内国勧業博覧会に出品して、はやくも褒状を受けた。その後、日本青年絵画協会、京都市美術工芸品展覧会、日本美術協会等に出品して次第に頭角をあらわした。明治28年、師楳嶺の死に遭つたが、京都に於いて開かれた第4回内国勧業博覧会に「長良川鵜飼」を出品して3等銅牌を受けた。この博覧会で橋本雅邦の「龍虎図」「釈迦十六羅漢」を見て感動し、翌29年上京して雅邦の門に入つた。その後、明治30年代には、主として日本絵画協会、日本美術院聯合絵画共進会に出品して屡々受賞した。明治40年、東京府勧業博覧会に審査官として「二日月」を発表して1等賞を受け、その画名を高めた。この年から開設された文展の審査員を命ぜられ、以後毎年審査員として文展に出品した。明治41年には、玉堂を中心として芸術を論じ、風流を楽しむ山水会が生れ、以来30年の間つづき、また翌42年には、彼の長流画塾を中心とする下萌会が生れて展覧会を催した。大正4年東京美術学校教授を拝命し、同7年には日本画科主任となつたが、昭和11年に至る前後20余年の間教職に在つた。大正6年帝室技芸員を命ぜられ、同8年には帝国美術院の創立とともに同会員に挙げられた。同13年大観、栖鳳など日本画壇の長老たちと淡交会を結成して毎年展覧会を開いた。昭和12年帝国芸術院会員を仰付けられ、同15年多年の功労によつて文化勲章を授与された。
 玉堂は、はじめ四条派を学んだが、それにあきたらずして転じて雅邦に師事した。従つてその初期の作品には楳嶺流の写生派の感化を示しているが、明治30年頃からの作品には狩野流の線描が目立つ。しかし、明治40年の「二日月」に至つて雲煙の表現に新意を開き、以後その個性的な線描と雲煙表出による水墨に新境地を発展させて行つた。また、一面大正5年の「行く春」などあたりから色彩と線描との調和に腐心し、次第に成果をおさめた。大正7年の「暮るる山家」、同13年の「雨後」、昭和10年の「峰の夕」、同15年の「彩雨」などは、この傾向の代表的なものである。晩年にはむしろ色を抑えた墨を主とした作品が多く、昭和25年の「吹雪」、同27年の「暮雪」、同29年の「月天心」などはその中のすぐれた作品である。そして、彼は日本的な題材を穏和な日本的な手法で表現したが、俳味ゆたかな小品にもすぐれた作品をのこしている。
 その告別式は7月4日東京築地本願寺で行われたが、御供物料として金一封がおくられ、またかつて同画伯から日本画の手ほどきを受けられた皇后さまは菓子と生花をそなえられ、また政府は正3位勲1等旭日大綬章を贈つた。
略年譜
明治6年 11月24日、愛知県葉栗郡に、父川合勘七、母かなの長男として生れる。本名芳三郎。
明治14年 岐阜市に移住。
明治19年 京都の画家、青木泉橋、岐阜に来住。夫人も翠蘋と号する美人画家で、夫妻の知遇を得て大いに刺戟せられる。
明治20年 9月、青木泉橋の紹介状をもつて京都に上り、望月玉泉の門に入り、「玉舟」の号を与えられる。
明治23年 11月、幸野楳嶺の塾、大成義会に入る。第3回内国勧業博覧会「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」褒状。この時玉堂と改めた。
明治24年 京都市照円寺境内に住む。春、日本青年絵画協会「夏雨水禽」。秋、大成義会研究大会「本間資氏射鴟図」1等賞。
明治25年 京都市美術展覧会「春間野雉」。
明治26年 親戚の大洞家の次女富子と結婚。
明治26年 日本美術協会課題作「旅中の砧」1等褒状。
明治27年 京都市美術工芸品展覧会「二喬読兵書図」3等銅牌。
明治28年 2月、師幸野楳嶺死去。この年春京都開催の第4回内国勧業博覧会出品の橋本雅邦作「竜虎の図」と「釈迦十六羅漢」をみて、深く感動する。内国勧業博覧会「長良川鵜飼」3等銅牌。
明治29年 上京橋本雅邦の門に入り、麹町に住む。9月、日本絵画協会主催第1回絵画共進会展「波に鴎」褒状。
明治30年 陸軍大将川上操六の知遇を受け、大いに教えられるところあり、同家の襖絵16枚を描く。4月、第2回絵画共進会展「孟母断機」3等銅牌。10月、第3回絵画共進会「家鴨」3等銅牌、農商務省買上となる。
明治31年 10月15日、日本美術院創立せられ、雅邦に従つてこれに加わる。4月、第4回絵画共進会「池畔観花図」2等銀牌。10月、第5回絵画共進会(この時から日本美術院と聯合、以後同じ)「冬嶺孤鹿」3等銅牌。
明治32年 日本美術院展における会長の訓辞に対し、出品者を代表して答辞を読む。10月、第7回絵画共進会展「小松内府」3等銅牌。
明治33年 この頃より次第に名声あがり、その塾、長流画塾も盛んとなる。4月、第8回絵画共進会「柿の実」3等銅牌。10月、第9回絵画共進会展「水禽」2等銀牌。
明治34年 10月、第11回絵画共進会展「湘君」3等銅牌。
明治35年 9月、日本絵画協会役員改選の結果、同会の幹事並びに評議員に依嘱せられる。3月、第12回絵画共進会展「瀑布」銀牌。10月、第13回絵画共進会展「紅露」「凉蔭」2等銀牌。
明治36年 3月、第14回絵画共進会「朝」「夕映」。10月、第15回絵画共進会展「焚火」2等銀牌。
明治38年 東上10周年に当り、長流画塾の研究大会を開き、園遊会を催す。
明治39年 五二共進会審査員に任命せられる。日本美術院展「麻姑」五二共進会「驟雨」1等賞。
明治40年 3月、東京勧業博覧会の審査官を嘱託せられる。東京勧業博覧会「二日月」1等賞。8月文部省美術審査委員会委員を仰付けらる。10月、文部省第1回美術展覧会(以下文展と略称)「片時雨」。
明治41年 1月、師橋本雅邦死去。玉堂を中心に芸術を論じ、風流を楽しむ山水会が生れ爾後30年続く。第1回国画玉成会展「渓村秋晴」10月、第2回文展「秋山遊鹿」。
明治42年 長流画塾盛んとなり、研究会とは別に、展覧会本位の団体、下萌会が生まれる。4月、第1回下萌会展「波」「高嶺残雪」。10月、第3回文展「霧」「高嶺の雪」。
明治43年 9月、イタリア万国博覧会監査委員に任命せらる。10月、第4回文展「炊煙」。
明治44年 10月、第5回文展「細雨」。
大正元年 文展日本画部を二科に区分、日本画部第二科審査員に任命せられる。春草追悼会「藤花」。10月、第6回文展「潮」。
大正2年 10月、第7回文展「雑木山」「夕月夜」。
大正3年 大正博覧会審査員に任命せられる。4月大正博覧会「背戸の畑」。10月、第8回文展「駒ヶ岳」「夕立前」「晩渡」。
大正5年 10月、第10回文展「行く春」。
大正6年 6月、帝室技芸員を拝命。10月、第11回文展「小春の夕」。
大正7年 下萌会を復活。東京美術学校日本画科主任に任ぜられる。10月、第12回文展「暮るる山家」。
大正8年 9月、帝国美術院会員となる。第3回下萌会「春風」「春苑」。
大正9年 第4回下萌会「山毛欅」、第2回帝国美術院展覧会(以下帝展と略称)「風立つ浦」。
大正10年 第3回帝展「小雨の軒」「岩魚釣」。
大正11年 5月、第1回朝鮮美術展覧会が開かれ、審査員として京城に赴き、朝鮮各地を巡遊。第6回下萌会「奥州街道」。第4回帝展「柳蔭閑話」。
大正13年 小堀鞆音、下村観山、山元春挙、竹内栖鳳川合玉堂横山大観6人の淡交会生れる。
大正14年 第9回下萌会「湖畔」。第2回淡交会「長閑」「暮靄」「斜陽」。第6回帝展「幽谷の秋」。
大正15年 下萌会は第10回展を最後として終了。第10回展「渡頭の春」。第3回淡交会「晴耕」「夕汐」。第7回帝展「小春」外。4月、聖徳太子奉讃美術展「春」。
昭和2年 下萌会に代る長流画塾研究大会を浜町日本橋倶楽部にて開催。第4回淡交会「深秋」「野末の秋」「四つ手網」。長流画塾大会「凪」。第8回帝展「峠の冬」。
昭和3年 1月、今上陛下御即位御大典用品として、悠紀地方風俗屏風の揮毫を拝命。3月長流画塾の少壮集つて戊辰会を組織し顧問に推される。第1回戊辰会「八哥鳥」。10月、「悠紀屏風」完成。
昭和4年 12月、翌5年ローマに開催の日本美術展覧会出品画を宮中において天覧、横山大観とともに御説明。第2回戊辰会「渇虎」。第5回淡交会「古城春雨」「藤」。12月、イタリア美術展覧会「奔湍」「秋山懸瀑」「山雨新霽」「柳蔭閑話」「長閑」「驟雨」「松上鸛★図」「吹雪」。
昭和5年 聖徳太子奉讃美術展「多景島」。第6回淡交会「燕子花」「雪」「石楠花」。10月、第11回帝展「から臼」。
昭和6年 フランス政府より、レジョン・ドヌール勲章を拝受。6月、イタリア皇帝よりグラン・オフイシェー・クーロンヌ勲章を拝受。第3回戊辰会「四ツ目垣」。第12回帝展「鵜飼」。
昭和7年 10月、正4位に叙せられる。第4回戊辰会「めばる」。第13回帝展「土橋」(二曲一双屏風)。
昭和8年 10月、ドイツ政府より赤十字第1等名誉章をおくられる。第5回戊辰会「初祖」。第7回淡交会「春雨」「河原の夏」「高嶺淡靄」。第14回帝展「深秋」。
昭和9年 京都大礼紀念展「新月古城」。第8回淡交会「早春」「竹生島」「寒山拾得」。第10回帝展「宿雪」。
昭和10年 6月、帝国美術院会員に任命せられる。第7回戊辰会「鵜」。第9回淡交会「峰の夕」「雨後」「投網」。現代綜合美術展「峠の冬」。日本画会展「良夜」。
昭和11年 2月、帝国美術院松田改組なり、第1回展覧会開かれる。6月、東京美術学校教授及び帝国美術院会員の辞表を提出。11月、平生改組による第1回文部省展覧会開かれる。帝国美術院第1回展「雪しまく瀬戸」。
昭和12年 6月、安井改組により帝国美術院は解消、帝国芸術院が生れ、秋改めて第1回文部省展覧会を開催。第8回戊辰会「島の春」。
昭和13年 第9回戊辰会「朝もや」。第2回文展「一樹の蔭」。
昭和14年 4月、戊辰会を解散。第10回戊辰会「銃後の春」「富士」。
昭和15年 10月、紀元二六〇〇年式典当日文化勲章を受ける。同奉祝展「彩雨」。
昭和16年 仏印巡回日本画展「晩帰」。
昭和17年 1月、俳句集「山笑集」刊行。陸海軍献納画「祝捷日」、日本赤十字社より皇太子殿下へ献納の「ゆるぎなき大和島根」を描く。
昭和18年 満州建国10周年慶祝展「急緩万里」。第6回文展「山雨一過」。
昭和19年 7月、東京都下西多摩郡に疎開。12月更に古里村に転ずる。この頃、歌集「若宮集」をつくる。第7回文展「荒磯」。芸術院会員陸軍献納展「神富士」「煙雨」「雨霧」「深山の春」。戦艦献納のため「旗日」「山霊」「海風」「吹雪」「秋晴」を描く。
昭和20年 5月、牛込の住宅戦災にあい焼失。12月、西多摩郡に移り、「偶庵」と称する。
昭和21年 第1回日本美術展覧会「朝晴」。
昭和22年 11月、歌集「多摩の草屋」刊行。「滝壷」等を製作。
昭和23年 11月、歌集「多摩の草屋」巻2刊行。第1回白寿会展「春光」。
昭和24年 12月、歌集「多摩の草屋」巻3刊行。松坂屋巨匠展「やまめ釣」。
昭和25年 第1回無名会展「吹雪」。尚美会展「奔湍釣魚」。松坂屋現代巨匠展「潮騒」。
昭和26年 第2回無名会展「雪の天地岳」。高島屋画廊開設記念展「高嶺残雪」。
昭和27年 兼素洞の企画によつて、玉堂、大観、竜子の三人展雪月花展がはじまる。第3回無名会展「宿雪」。松坂屋の玉堂、大観双璧展「鶴」。第1回雪月花展「朝雪」「暮雪」。
昭和28年 4月、歌集「多摩の草屋」巻4刊行。8月、ブリヂストン美術館映画部により、映画「川合玉堂」を撮影、11月完成。11月病を得て療養につとめ、以後4ヶ月間製作を行わず、第4回無名会展「泉」「雪」。第2回雪月花展「花筏」「古城の春」。日本美術協会「普化僧」。
昭和29年 3月中旬、病気恢復。第3回雪月花展「月天心」「夕月」。
昭和30年 3月、兼素洞の企画によつて、大観、玉堂、竜子の三人展の松竹梅展開く。大観は松、玉堂は竹、竜子は梅の課題である。第6回無名会「雪降る日」「寒山題壁」。松竹梅展「東風」「若竹」。
昭和31年 第7回無名会展「冬晴」「猿」。第2回松竹梅展「隣の梅」「野梅」。
昭和32年 2月下旬、心臓喘息病をおこし、青梅の自宅にて療養、一時恢復に向う。6月上旬から再び悪化し、30日午後0時40分急逝。7月4日築地本願寺に於て告別式を行う。正3位勲1等旭日大綬章を賜つた。この年第8回無名会展に「鴛鴦」「網干」松竹梅展に「老松」「若松」出品。

出 典:『日本美術年鑑』昭和33年版(168-171頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「川合玉堂」『日本美術年鑑』昭和33年版(168-171頁)
例)「川合玉堂 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8857.html(閲覧日 2024-03-29)

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