織田一磨

没年月日:1956/03/08
分野:, (版)

石版画家織田一磨は、3月8日心臓麻痺のため東京都武蔵野市の自宅で逝去した。享年75歳。明治15年11月11日東京に生れ、洋画を川村清雄、石版を金子政次郎に学んだ。明治31年大阪の実兄織田東禹のもとに同居、翌32年京都新古美術展に初めて作品を発表し、「観桜の図」が1等褒賞となつた。その後、36年に上京する迄、毎回同展に出品、受賞している。上京後は川村清雄等のトモエ会に作品を発表し、また複製石版をはじめた。42年、山本鼎石井柏亭等の雑誌「方寸」の同人に加わり、創作版画の運動をおこし、石版による創作版画を確立した。明治44年から再び東京をはなれ、大阪で帝国新聞社などに勤務していた。大正4年帰京、代表作の一つである「東京風景」「大阪風景」など情緒豊かな連作石版を発表した。また、大正7年には山本鼎、戸張孤雁等と我国最初の綜合的な版画団体、「日本創作版画協会」を組織し同展で活躍するほか、文展にも作品を送つていた。官展では、はじめ水彩、テンペラ画を出していたが、昭和以後は石版画を専門とした。昭和5年、さらに銅版、石版画家の結集を促し、洋風版画協会を設立するなど、新版画発達のためにつくした功績は大きい。昭和8年頃から登山を好み、山の作品が目立つて多くなつた。戦後は、日展出品依嘱者として第7回展から出品、晩年は仏画風の石版を同展に発表していた。題材は風景から花鳥、仏画に及んでいるが、堅実な写実をもとに、時代の雰囲気をつたえた、抒情豊かな風景石版にすぐれた作品が多い。また、浮世絵版画を好み、「北斎」「浮世絵十八考」「浮世絵と挿絵芸術」等著書も数冊に及んでいる。
略年譜
明治15年 11月11日東京芝に生れた。
明治31年 大阪東区の実兄織田東禹と同居。
明治32年 京都新古美術展に「観桜の図」出品、1等褒賞。以後34年迄毎年入選受賞する。
明治36年 東京に移る。「水彩画法」「水彩画手本」刊行。
明治37年 トモエ会に「停車場」「温室」等出品。
明治38年 諸方の依頼により複製石版を作る。
明治40年 第1回文展に「日光山の奥」出品
明治42年 第3回文展に「憂鬱の谷」出品。「方寸」同人、「パンの会」会員となる。
明治44年 大阪帝国新聞社に、森田恒友とともに入社。6月、中山太陽堂広告部に入社。
大正2年 この頃から浮世絵の研究に着手。
大正3年 第1回二科展に「河岸」出品。
大正4年 第2回二科展に「竹林遠望」出品。日本水彩画会審査員となる。
大正7年 山本鼎等と日本創作版画協会を組織する。「東京風景」石版連作20枚完成、「大阪風景」の制作に着手。
大正8年 第1回帝展「近郊秋景」出品。
大正13年 山陰旅行の途にのぼる。
大正14年 松江赤山に版画研究所開設。石版画「松江大橋雪夜」。
大正15年 第7回帝展に「彼女等の生活」(テンペラ)出品。「北斎」「浮世絵十八考」刊行。
昭和3年 第9回帝展に「たそがれ」(石版)出品。画集「銀座」刊行。
昭和5年 銅版、石版作家に呼びかけ洋風版画協会を設立。第11回定展「セメント工場」(石版)出品。画集「新宿風景」「浮世絵の知識」刊行。
昭和6年 吉祥寺に現在のアトリエを新築。「浮世絵と挿絵芸術」出版。
昭和7年 「東京近郊八景」(石版)。
昭和8年 武蔵野雑草会をつくり、又登山に興味をもち、山の作品多くなる。
昭和11年 文展招待展に「山頂雨後」出品。この年から文展無鑑査となる、以後毎年出品。
昭和12年 第1回新文展に「横笛」出品。
昭和13年 第2回文展に「山小屋の暁」出品。
昭和14年 第3回文展に「蔵王の精華」出品。
昭和20年 3月富山県に疎開。
昭和24年 2月帰京、吉祥寺のアトリエへ戻る。米国ボストン美術館に自画石版216点寄贈。
昭和25年 画集「舞妓」「花と鳥」刊行。
昭和26年 日展出品依嘱者となり没年迄毎年出品。
昭和28年 日展に「諸行無情初転法輪流転無窮」出品。
昭和29年 2月、織田石版術研究所展を東京銀座資生堂で開く。10月、東京丸ビル内中央公論社画廊で個展開催。
昭和30年 高尾山仏舎利塔扉原画を描く。
昭和31年 3月8日、心臓麻痺のため逝去。

出 典:『日本美術年鑑』昭和32年版(174-175頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「織田一磨」『日本美術年鑑』昭和32年版(174-175頁)
例)「織田一磨 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8826.html(閲覧日 2024-04-16)

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