山崎朝雲

没年月日:1954/06/04
分野:, (彫)

 帝室技芸員、日本芸術院会員で木彫界の長老山崎朝雲は、老衰のため文京区駒込病院に入院中であつたが、肺炎を併発して6月4日逝去した。享年88歳。号羯摩。慶応3年筑前博多に生れ、郷里の仏師高田又四郎に師事し、同26年志を立てて京都に出で、28年同地で行われた第4回内国勧業博覧会に「養老孝子」を出品して妙技3等賞を受けた。同29年東京に出て高村光雲に師事し、日本美術協会、東京彫工会や諸博覧会に出品して受賞、その名を高めた。同41年同志と日本彫刻会を起し、同43年文展審査員、大正8年帝展審査員に選ばれ、昭和2年帝国美術院会員、同9年帝室技芸員となつた。同27年多年の功労により文化功労者に選ばれた。多年の間に多くの作品を作つたが、それらは伝統的な木彫に写実味を加えた穏雅な作風である。展覧会出品作のほかいくつかの記念像を製作している。
略年譜
慶応3年 筑前博多に生る。
明治17年 福岡の仏師高田又四郎に師事。
明治21年 博多橘氏四女ゑい子と結婚。
明治26年 京都に出る。
明治28年 第4回内国勧業博覧会に「養老孝子」出品。妙技3等賞を受け、宮内省買上。
明治29年 東京に出て、高村光雲に師事。
明治31年 東京彫工会及び日本美術協会審査員となる。彫工競技会に「母子」出品、金賞を受く。
明治33年 巴里万国博覧会に「気比斉晴」「少女猫を抱く図」出品銀賞を受く。第15回彫刻競技会に皇后陛下行啓の際、御前彫刻を台覧に供す。鋳鋼「少女之図」を日本美術協会に出品、銀賞。
明治34年 福岡市東公園に「亀山上皇」銅像建設。
明治36年 鋳銅「乳搾」を日本美術協会展に出品し金賞を受く、後米国セントルイス万国博覧会に出品す。木彫「海岸の子供」を内国勧業博覧会に出品し、2等賞を受け、宮内省買上。
明治37年 「戯乗」を第35回日本美術協会展出品、のちベルギーに出品銀賞、次いで日英万国博覧会出品金賞を受く。鋳銅「柄香炉を捧げる官女」を第20回彫刻競技会に出品、金賞を受け、宮内省買上。
明治38年 「伊企灘」を第36回日本美術協会展に出品、金賞を受け、宮内省買上。
明治39年 第21回彫刻競技会に皇后陛下行啓の際御前彫刻、鋳銅「彫塑家とモデル」を出品、宮内省買上。鋳銅「新装」を白耳義リエージュ博覧会に出品名誉賞。木彫「竹馬遊」を第39回日本美術協会展出品金賞、宮内省買上。
明治40年 東京府勧業博覧会審査員となり、「桂の影」を出品、1等賞を受け、宮内省買上。
明治41年 同志と日本彫刻会を創立し、「明の封冊」出品。銅像「津軽藩祖為信公」を弘前市公園に建設。木彫「大葉子」を第2回文展に出品し3等賞、政府買上。鋳銅「砂文字」を第23回彫刻競技会出品、宮内省買上。
明治42年 東京府美術及工芸展覧会審査員。銅像「医学博士大森治豊」を九州帝大学内に建設。
明治43年 文展審査員となり、大正7年に至る。日英博覧会出品「夏の夕」「寒夜の衛士」共に金、銀賞を受く。「狗児」を第25回彫刻競技会に出品、宮内省買上。「東奥の乙女」第4回文展出品。
明治44年 「★」ほか2点を第5回文展出品。
大正2年 日本美術協会第51回展に天皇陛下行幸の際御前彫刻を命ぜられ木彫「兎」を彫刻す。
大正3年 大正博覧会審査員となり、「同級生の弔辞」ほか2点出品。「打毬楽」を御大典に際し今上陛下より皇太后陛下に贈らる。「万歳楽」を学習院より宮内省へ献上。
大正4年 「技おり」「同級生の弔辞」を桑港博覧会出品。「東遊」今上陛下より高松宮へ贈らる。木彫「みなかみ」ほか2点を第9回文展に出品
大正8年 農商務省美術工芸審査員(同11年迄)帝展審査員となり、「上矢の鏑」出品。
昭和2年 帝国美術院会員を仰付らる。
昭和9年 帝室技芸員を命ぜらる。芝青松寺「釈迦三尊仏」を完成安置。
昭和12年 帝国芸術院会員仰付らる。「豊太閣」を第1回文展に出品。
昭和15年 「倭乙女」を紀元二六〇〇年奉祝展に出品。
昭和18年 戦禍を避け福島県に疎開す。
昭和19年 「聖観音」を戦時特別展に出品。
昭和21年 日本芸術院会員となる。第1回日展に「春陽」出品。
昭和23年 「五鬢之文珠」を第4回日展に出品。
昭和26年 東京芝青松寺に釈迦三尊仏を再び完成す。
昭和27年 文化功労者となる。
昭和29年 京都東山霊山観音原型製作。6月4日没

出 典:『日本美術年鑑』昭和30年版(176-177頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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