北大路魯山人

没年月日:1959/12/21
分野:, (工,陶)

 陶芸家北大路魯山人は、12月21日、横浜市立医科大学(十全病院)で肝硬変のため逝去した。享年76歳。本名は房次郎。陶芸家としてのほかに、食通としても知られ、また、書や篆刻、画もよくした。明治16年3月23日、京都上加茂神社の社家に、社人北大路清操の次男として生まれた。しかし、出生前に父親が死亡していたため、次々と養父母が変り、愛情に恵まれない数奇な幼年期を過ごした。小学校を卒えると、直ちに薬屋に丁稚奉公したが、2、3年たつた頃、日本画家を志して薬屋をやめ、再び養家(福田)に戻る。日本画にかかる費用を、養父の篆刻の手伝いや書で稼いでいたところ、たまたま書家としての天稟を認められ、やがて書道と篆刻で立つことになつた。明治41年朝鮮に渡り、総督府の書記となつて書道と篆刻の研究に打ちこむ。後、総督府をやめて内地に戻り、明治末ごろから大正にかけては、京都の内貴清兵衛の許で、溪仙、麦遷、御舟等と交遊する。この頃から食通の才をあらわしはじめ、やがて上京して、駿河台で書と篆刻で生計を図るかたわら、大正10年には、京橋に美食倶楽部をはじめる。そこが震災で焼けてからは、美食倶楽部を星ケ岡茶寮に移し、昭和12年まで共同経営し、自ら厨房長となつて腕をふるい、政界財界の食通人の間に名声を博した。魯山人が作陶を始めた動機は、その折、自分の作つた料理を盛るのにふさわしい器がないという理由から、その食器も自分で作ろうとしたことにはじまる。こうして、料理に適した食器の研究、制作が続けられ、その手になる器皿は食器としての最上の効果を発揮するとまで称讃されるようになつた。
 後、北鎌倉の窯場(神奈川県鎌倉市)に定住して作陶に専心、ますます陶芸家としての名声が高くなつた。また、イサム・ノグチの作陶上のよき師でもあり、そのイサム・ノグチとロックフェラーの招きで、昭和29年米国と欧州に遊び個展を開いた。この個展は、魯山人の名声を国際的なものにし、その評判は、更に、わが国の陶磁を世界に再認識させる契機ともなつた。魯山人は、終始一切の会に所属せず、独自の研究と作風で制作を続け、個展は70回近く開いたといわれるが、個展以外はどのような展観にも出品せず、完全に陶芸界を独歩した。その、稀に見る豪放な風格、広範な作域、格調高い作品で孤立する様相は、まさに不世出の巨匠が、他にぬきんでて、高く鋭く聳えている感があり、常時、わが国現代の陶芸界における無所属作家の筆頭にあげられていた。作陶上の芸域はひろく、中国明代の染付、赤絵、金襴手はもとより、わが国の志野、織部、黄瀬戸、信楽、備前、古九谷、乾山等の格調をよく自己のものとし、現代にその魅力を生かす手腕は驚くべきものがあつた。中でも特に、桃山茶陶風の志野、織部、備前を素材としたものが得意であつた。作調は、全く自由奔放、しかも創意に満ち、独自の風格を持つた優作が夥しく生まれている。しかるに、芸術上では優秀性を存分にあらわしたと思える稀代な個性、魯山人の性格は、一たび人間として社会生活を行うという段になるとまことに芳しくなかつたようである。その個性は強烈な癖となつてあらわれ、人人を遠ざからせたようで、人々が魯山人の人物に関して云々するのに、「我儘」、「奔放」、「傲慢」、「横柄」、「辛辣にすぎる苦言」、「相手の傷に指をさしこむような苛虐さ」、「罵声や放言にも似た作品批評や人物批評」、「驚くべき自画自讃」、「なんて嫌な、なんて憎たらしい奴」、「全く腹にすえかねる」等々……。このような、法外に我儘な、過度に奔放な言動がわざわいして、遂には肉親からも弟子からも離れられ、魯山人の芸術を高く評価する数多の人々からも極度に敬遠されたのは、魯山人にとつて事実まことに残念なマイナス面であつた。

出 典:『日本美術年鑑』昭和35年版(145頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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