瀧精一

没年月日:1945/05/17
分野:, (学)

帝国学士院会員、東京帝国大学名誉教授、文学博士瀧精一は5月17日心臓麻痺のため東京都品川区の自邸に於て急逝した。享年73。明治6年明治期の著名なる日本画家瀧和亭の長子として生れ、同30年東京帝国大学文科大学を卒業、同大学大学院に入学美学を専攻した。東京美術学校、京都帝国大学、東京帝国大学等の講師を経て大正3年東京帝国大学教授に任ぜられ、美術史学の講座を担当した。翌4年文学博士の学位を得た。東大に於ては概説として日本美術史を講じ、特殊講議として支那絵画史、印度仏教美術等を講述し、美術史学の基礎を確立した。同9年東宮御学問所御用掛を拝命し今上陛下に美術史を御進講申上げた。同14年帝国学士院会員に推された。昭和2年東京帝国大学評議員となり、同年同学文学部長に補せられ。その運営に貢献するところがあつた。同9年停年と共に退官、東京帝国大学名誉教授の名称を授けられた。又夙く古社寺保存会、国宝保存会の委員となり、重要美術品等調査会の創設に尽力し、その委員となつた。法隆寺の保存事業についても企画するところがあり、壁画の模写も実行に移された。その他印度アジャンタ石窟寺院の壁画やブリティッシュ・ミュゼアムの燉煌発掘の壁画の模写を作らしめた。また美術品の科学的研究のために古美術自然科学研究会を起し科学者に委嘱して諸種の研究業績を挙げしめた。又対支文化事業として設立された東方文化学院のために尽瘁し、昭和14年にはその理事長となり又院長に挙げられた。併し、その生涯の業績中最大のものは、雑誌国華の刊行であつて、明治34年その編集に初めて携つて以来、その逝去に至る迄岡倉天心等創刊者の意を継承して、その発展に努力し、自ら編集の主軸となると同時に多くの論文、解説等を発表した。これはわが美術史学の発達に多大の貢献をなしたばかりではなく、美術愛好者を啓発し、又海外諸国へ東洋美術を紹介するに、大きな役割を果したのである。その著書としては、生前自ら選択して編んだ「瀧拙庵美術論集日本篇」(昭和18年座右宝刊行会)があり、その他「文人画概論」(大正11年改造社)Japanese Fin Art(昭和6年富山房)があり、その編集に成るものに「日本古美術案内」(昭和6年大和絵会)がある。
略年譜
明治6年 12月23日東京に生る
明治30年 東京帝国大学文科大学卒業、東京帝国大学大学院入学美学専攻
明治32年 東京美術学校の美学授業を嘱託さる
明治33年 帝室博物館列品英文解説に関する事務を嘱託さる
明治34年 国華社業務担当員となり兼て編集に従事す 依願東京美術学校講師解嘱
明治35年 普通教育に於ける図画取調委員を嘱託さる
明治35年 依願帝室博物館列品英文解説事務解嘱
明治40年 東京勧業博覧会審査員を嘱託さる
明治42年 京都帝国大学文科大学講師を嘱託さる 東京美術学校美学授業を嘱託さる 東京帝国大学文科大学講師を嘱託さる。日英博覧会鑑査官被仰付
明治44年 東京女子高等師範学校講師を嘱託さる、依願東京美術学校講師解嘱
明治45年 東京帝国大学より欧米出張を命ぜらる
大正2年 帰朝、任東京帝国大学文科大学教授、叙高等官6等、美学美術史第二講座担任を命ぜらる
大正4年 文学博士の学位を受く
大正5年 帝室技芸員選択委員被仰付
大正9年 東宮御学問所御用掛被仰付
大正10年 7月文部省より欧洲へ出張を命ぜらる。12月帰朝
大正14年 帝国学士院会員被仰付
大正15年 1月文部省より帝国学士院の要務を以て欧洲へ出張を命ぜらる、8月帰朝
昭和2年 東京帝国大学評議員となる、東京帝国大学文学部長に補せらる、陞叙高等官1等、叙従4位
昭和4年 国宝保存会委員被仰付
昭和6年 依願東京帝国大学文学部長を免ぜらる
昭和9年 依願本官を免ぜらる、叙従3位、東京帝国大学名誉教授の名称を受く
昭和13年 帝室博物館顧問被仰付
昭和14年 東方文化学院理事長、同院々長となる
昭和15年 国華刊行による東洋美術文化宣揚の功績に対し朝日文化賞を受く
昭和20年 叙勲2等授瑞宝章、品川区上大崎の自邸に於て急逝

出 典:『日本美術年鑑』昭和19・20・21年版(100-101頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「瀧精一」『日本美術年鑑』昭和19・20・21年版(100-101頁)
例)「瀧精一 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8726.html(閲覧日 2024-04-20)

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