中村不折

没年月日:1943/06/06
分野:, (洋)

 帝国芸術院会員中村不折は、6月6日東京都下谷区の自邸に於て逝去した。享年78。
 不折は慶応2年7月10日江戸京橋に生れた。本名鈼太郎、明治3年一家を挙げて郷里長野県高遠に移つた。12歳の頃杉岡環翠門の南画家真壁雲郷に就て南画を学んだが、その少年時代を逆境の裡に送つた。同19年20歳の時長野に遊び、河野某に就て洋風画の初歩を学び、同20年東京に出で、十一字会研究所に入り、小山正太郎、浅井忠の薫陶を受けた。同28年彼は日清戦役に従軍し、遼東半島、朝鮮を跋渉して帰つた。この前後彼は新聞小日本及び日本等に挿絵を描いた。明治23年以来その作品を明治美術会に発表したが、同32年の同会に「淡煙」並びに「黄葉村」を出品し、前者は宮内省御用品となり、漸くその名を知らるるに至つた。同34年仏蘭西に留学し、初めラファエル・コランに師事したが、半歳にしてアカデミイ・ジュリアンに転じ、ジャン・ポール・ローランスの薫陶を受け、同38年帰朝した。同年太平洋画会々員となり、同会第4回展覧会に滞欧作を特別展観して、後進を啓発し、同39年の太平洋画会展に日本神代に題を採つて「八重の潮路」「無目堅間」等を出品した。同40年東京勧業博覧会審査員に選ばれ、大作「建国剏業」を発表して注目を惹き、1等賞を授けられたが、故あつて授賞を返却した。明治40年文展の創設と共に審査委員会委員となり、大正8年帝国美術院会員、昭和12年帝国美術院会員となつた。此の間自らも多くの作品を発表したが、道釈人物、習作、風景等多方面に亘つている。又明治39年太平洋画会研究所が創立されて以来、後進の誘掖に尽力し、昭和9年組織を改めて太平洋美術学校となるに及びその校長となつた。更に書道についても造詣深く、昭和11年その蒐集をもつて財団法人書道博物館を創立してその方面の研究鑑賞に貢献した。
略年譜
慶応2年 7月10日京橋に生る、名は鈼太郎、父源蔵、母りゆう
明治3年(5歳) 一家を挙げて郷里高遠に移る、幼より画を好み、物の形を写すことを楽みとした
明治10年(12歳) 松岡環翠門下の南画家真壁雲郷に就て南画を学ぶ
明治12年(14歳) 父に従い松本に行き某商店に奉公す
明治13年(15歳) 父に従い上諏訪に移る、白木屋呉服店に奉公す
明治15年(17歳) 病を得て高遠に帰る、菓子職人となる
明治17年(19歳) 高遠小学校の授業生となる
明治18年(20歳) 伊那校の助教に転ず、夏期休暇を利用して長野に遊び、河野次郎に洋画の初歩を習う
明治19年(21歳)図画及び数学の教師として飯田小学校に聘せらる
明治20年(22歳) 4月上京、十一字会研究所(後に不同舎となる)に入りて小山正太郎に師事す
明治23年(25歳) 明治美術会第二回展覧会に水彩画3点を出品す
明治24年(26歳) 油絵を習い始む、自画像の作あり
明治26年(28歳) 明治美術会展覧会に「人間不知比音」「憐むべし自宅の写生」「誰家新婦黄麦巡」3点を出品す
明治27年(29歳) 浅井忠の斡旋によつて「小日本」に入社挿絵を担当す、湯島2丁目に転居す
明治28年(30歳) 日清戦役に従軍し、3月広島を出発、満朝諸地を巡歴して8月帰朝、明治美術会に「鳳凰城」出品
明治29年(31歳) 妻いと子を娶る、日本新聞社に入社し、挿絵を執筆す
明治30年(32歳) 明治美術会展に「梅花園」出品
明治31年(33歳) 8月黒田候一行に随つて富士登山、中根岸に移る。
明治32年(34歳) 明治美術会展に「淡煙」「黄葉村」出品、「黄葉村」は巴里万国博にも出品褒賞受く
明治33年(35歳) 明治美術会展に「春の渡し」出品
明治34年(36歳) 6月仏国留学はじめコランの教えを受け、半年にしてアカデミー・ジュリアンに転じローランスの指導を受く、雑誌「国華」に「鳥羽僧正論」執筆
明治37年(39歳) 秋ジュリアン画塾の競技に優勝を得
明治38年(40歳) 睦実と伊太利亜に同遊、萩原守衛と英国に遊び、3月帰朝、太平洋画会々員となり、其の第4会展に滞欧中の作品発表
明治39年(41歳) 太平洋画会第5回展に「八重の潮路」「無目堅間」「井辺の桂樹」「神史草稿」「夏の午前」等出品、真島町に新設されし同会研究所に教鞭をとる
明治40年(42歳) 春東京博覧会審査委員を命ぜらる、同会に大作「建国剏業」「泉」出品1等賞を受く、不満の為これを返却す、秋創設の文部省美術審査委員会委員を命ぜらる、「白頭翁」「彫刻家」出品、此頃より前田黙鳳と健筆会を組織し、日本美術協会に展覧会を開く
明治41年(43歳) 第2回文展に「半諾迦尊者」出品、
明治42年(44歳) 談書会創始
明治43年(45歳) 第4回文展に「半諾迦尊者」出品
明治44年(46歳) 第5回文展に「跋★羅尊者」、第9回太平洋展に「雁の声」「春」「裸婦」等出品
明治45年(47歳) 第6回文展に「迦諾迦伐蹉尊者」「巨人の跡」、第10回太平洋展に「落椿」「道」等出品
大正2年(48歳) 上根岸町に移る、第7回文展に「神農」「老孔二聖の会見」、第11回太平洋展に「耕作」出品
大正3年(49歳) 大正博覧会に「廓然無聖」「酒」出品、第8回文展に「和璞を抱いて泣く」「処女」出品
大正4年(50歳) 第9回文展に「養身」「補納」出品、3月「芸術解剖学」刊行
大正5年(51歳) 第10回文展に「黎明」「たそがれ」、第10回太平洋展に「医化学」出品
大正6年(52歳) 第11回文展に「巣父汚流に飲はず」「維摩居士」出品、第14回太平洋展に「漁夫」「池畔」出品
大正8年(54歳) 9月8日帝国美術院会員仰付らる、第1回帝展に「天の窟戸」「孟母断機」出品、第16回太平洋展に「エチユード」「散華」「鏡」出品
大正9年(55歳) 第2回帝展に「賺蘭亭図」「冬の河辺」、第17回太平洋展に「不死の薬」出品
大正10年(56歳) 第3回帝展に「摩崖」「雨」、第18回太平洋展に「冬がれ」「霜の朝」「習作」出品
大正12年(58歳) 第4回帝展に「仙桃」「雨ぐも」、第19回太平洋展に「新緑の渡し」「清水」「雪の庭」出品
大正13年(59歳) 第5回帝展に「始制文学」、第20回太平洋展に「春寒し」「微風」「名所図絵」出品
大正14年(60歳) 第6回帝展に「華清池」、第21回太平洋展に「ひるね」「初夏の清流」「写生」「夕栄」出品
大正15年(61歳) 第7回帝展に「桂樹の井」(竜宮の婚約)「六月の川」、第22回太平洋展に「清閑」出品、門人等より還暦寿像(堀進二作)を贈らる、聖徳太子展に「山高月小」「壷」出品
昭和2年(62歳) 第8回帝展に「子虚賦」、第23回太平洋展に「王義之」「近眼の娘」「鏡」出品 3月「禹域出土墨宝書法源流考」出版
昭和3年(63歳) 第9回帝展に「★芋不答宣使」、第24回太平洋展に「凝視」「音譜」「うしろむき」出品
昭和4年(64歳) 第10回帝展に「廬生の夢」、第25回太平洋展に「山村錦秋」「荒駅晩秋」出品
昭和5年(65歳) 第11回帝展に「蘇武之苦節」、第26回太平洋展に「肖像」「暮雪」「習作」出品
昭和6年(66歳) 第27回太平洋展に「春近し」「岩殿山」「黄葉の庭」出品
昭和7年(67歳) 第13回帝展に「酔李白」、第28回太平洋展に「初冬の河畔」出品
昭和8年(68歳) 第14回帝展に「小雨の渡し」、第29回太平洋展に「雪後」出品、雄山閣より「法帖書論集」13巻の刊行に着手
昭和9年(69歳) 7月、太平洋画会研究所を太平洋美術学校と改組、推されて其校長となる、第15回帝展に「伯夷叙斉」出品
昭和10年(70歳) 松田文相により帝国美術院改組、新帝国美術院会員となる、此秋帝展開かれず、二部会展に「芦の湖」出品、第31回太平洋展に「箱根の朝」「深秋」出品
昭和11年(71歳) 財団法人書道博物館成る、平生改組後の文展に「妙義山」出品、第32回太平洋展「印旛沼」出品
昭和12年(72歳) 安井改組の帝国芸術院会員となる、文展に「球盛」出品、第33回太平洋展に「古器と新人」出品
昭和13年(73歳) 第2回文展に「沈黙」出品、第34回太平洋展に「錦絵の屏風」「習作」出品
昭和14年(74歳) 第35回太平洋展に素描並びに油絵の回顧陳列をなす、計65点「賺蘭亭図」文部省買上げとなる、10余点を文部省に寄贈す、出品の新作「懸泉」「海岸の三人娘」等、「不折画集」刊行、第3回文展「河鹿島」
昭和15年(75歳) 紀元二千六百年奉祝美術展「湖畔」
昭和16年(76歳) 第4回文展「仙果」
昭和17年(77歳) 第5回文展「眺望」
昭和18年(78歳) 下谷区の自邸に於て逝去

出 典:『日本美術年鑑』昭和19・20・21年版(86-87頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「中村不折」が含まれます。
to page top