橋本関雪

没年月日:1945/02/26
分野:, (日)

 帝室技芸員、帝国芸術院会員橋本関雪は2月26日京都の自邸で狭心症のため逝去した。享年63。名関一、明治16年旧明石藩の漢学者橋本海関の息として生れ、家学を父にうけたが、まもなく片岡公曠に南画を学び、34年には竹内栖鳳門に入つて画技をすすめた。38年には日露役に従軍、41年には上京して谷中に寓居し、第2回文展以後連続出品して屡々受賞、大正8年帝展第1回から審査員として活躍した。文展では「失意」「琵琶行」「片岡山のほとり」「松下煎茗」等に褒状、「遅日」「南国」「猟」は2等賞、「寒山拾得」「倪雲林」はいずれも特選、推薦となつた第12回では「木蘭」を出していよいよ名声をあげた。大正2年初めて中国に渡り、その後中国旅行は60数回に及んでいる。大正10年渡欧してフランス、ドイツ、イタリヤを歴遊、昭和2年にも再度渡欧した。昭和9年帝室技芸員におされ、10年の改組では帝国芸術院会員となつた。帝展時代に入つて「木蘭詩」「聖地の旅」「長恨歌」「訪隠図」「玄猿」などの優作があり、暢達自在の筆技と覇気あふれた豪快な風格をもつてうたわれた。晩年の力作としては建仁寺の襖絵が著名であつた。支那風物地誌についての造詣も深く、文章、詩、短歌にも、独自の格調を盛つている。著作も数多く、「関雪随筆」「南画への道程」「石涛」「浦上玉堂」「支那山水随緑」「南を翔ける」等があり、その他非売品として出したものに「走井」「不離心帖」「玉堂事考」「国民百人一首」などがある。
略年譜
明治16年 11月10日神戸市に生る、父は旧明石藩儒者橋本海関
明治23年 湊川尋常高等小学校に入学し、かたはら家業を父にうく
明治24年 片岡公曠の門に入る
明治34年 竹内栖鳳に師事す
明治38年 満州軍司令部嘱託として従軍
明治41年 上京、谷中に寓居、第2回文展「鉄嶺城外の宿雪」入選
明治42年 文展第3回「失意」(褒状)
明治43年 文展第4回「琵琶行」(褒状)
明治44年 文展第5回「片岡山のほとり」(褒状)「異見王達磨を送る」
大正元年 文展6回「松下煎茗」「後醍醐帝」(共褒状)
大正2年 京都に移住す、この年初めて中国にゆく(その後60数回ゆく)、文展第7回「遅日」(2等賞)
大正3年 文展第8回「南国」(2等賞)「後苑」(無鑑査)
大正4年 文展第9回「猟」(2等賞)「狭江の六月」(無鑑査)
大正5年 文展10回「寒山拾得」(特選)「煉丹」(無鑑査)
大正6年 文展11回「倪雲林」(特選)
大正7年 文展12回「木蘭」(無鑑査)文展推薦となる
大正8年 第1回帝展審査員となる、帝展1回「郭巨」「遊踪四題」
大正9年 帝展2回「木蘭詩」「林和靖」
大正10年 渡欧、フランス、ドイツ イタリヤ等を歴遊
大正11年 帝展審査員となる、帝展4回「聖地の旅」
大正14年 帝展6回「相牛」「摘瓜図」
大正15年 聖徳太子奉賛展「仙女図」、第2回渡欧
昭和4年 帝展10回「長恨歌」
昭和5年 仏国政府より勲1等を受ける
昭和8年 帝展14回「玄猿」
昭和9年 帝室技芸員となる
昭和10年 帝国美術院会員となる、個展をひらく
昭和11年 文展招待「唐犬図」
昭和12年 文展「赴征」
昭和13年 東京三越に個展をひらく
昭和14年 戦争記念画「軍馬二題」(朝日賞)「恵日東帰」「残照」「春かえる」「戦塵」「河霧」「流民」、紐育万国博「霧猿」、戦争美術展「江上雨来る」
昭和15年 建仁寺襖絵を完成す、「生生流転」「伯楽」「深秋」「蕭条」「寒山子」、毎日日本画展「柳蔭馬を洗ふ」
昭和16年 文展4回「夏夕」、戦争記念画展「両面愛染明王」
昭和17年 飛行機にて南方を歴遊す、文展5回「防空壕」、満州国慶祝展「髪」、軍用機献納展「春潮」
昭和18年 文展6回「霜」
昭和19年 戦争美術展「黄浦江の朝」、文展7回「香妃戎装」
昭和20年 2月26日没

出 典:『日本美術年鑑』昭和19・20・21年版(97-98頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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