山村耕花

没年月日:1942/01/25
分野:, (日)

日本美術院同人山村耕花は昨年11月以来腎臓炎を病み、聖路加病院に加療中のところ1月25日逝去した。享年58。本名は豊成、明治18年12月品川の名刹不動様の家に生れ、初め尾形月耕に学び、後東京美術学校選科に入つて明治40年卒業した。同年第1回文展に「茶毘」入選、同第4回には「大宮人」を出して褒状をうけた。つづいて「お国と山左衛門」(7回)、「お杉お玉」(8回)、「春」(9回)等を発表して漸く世に知られるに至つた。大正5年第3回院展に「寂光の都」を出品、直に同人となり、以後連年出品を怠らず、「八朔」(4回)、「重陽」(5回)、「江南七趣」(8回)、「洛陽橋」(10回)、「向日葵」(11回)、「婦女愛禽図」(12回)、「軍茶利明王」(13回)、「腑分」(14回)、「菊酒」(16回)、「謡曲幻想-隅田川、田村」(17回)等の知名の作があり、そのほか米国博覧会出品の「梨花黄鳥」聖徳太子奉讃展出品の「ウンスン哥留多」改組第1回文展出品の「大威徳明王」等好評の作であつた。支那事変勃発するや「大地悠々」(13年)等の戦争画を発表、昭和15年には従軍して南支戦線を尋ね、陸軍省より各宮家へ献上した「南支汕頭上空より」「南支虎門動次島」等を描いた。同年紀元二千六百年を奉祝して画いた「皇紀萌芽」が最後の出品作となつた。なほ院展以外に嘗て烏合会、珊瑚会等に入つて作品を発表したこともあり、演劇の舞台装置等に携つたこともあつた。浮世絵、版画、人形、蒔絵、陶器などの蒐集鑑識についても一家をなしてゐた。

出 典:『日本美術年鑑』昭和18年版(75頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

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例)「山村耕花」『日本美術年鑑』昭和18年版(75頁)
例)「山村耕花 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8591.html(閲覧日 2024-04-20)

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