建畠大夢

没年月日:1942/03/22
分野:, (彫)

 帝国芸術院会員東京美術学校教授建畠大夢は昨年末より持病の喘息に悩んでいたが、肺気腫を併発し3月22日荒川区の自宅に於て逝去した。享年63。本名弥一郎、明治13年2月29日和歌山県有田郡建畠喜助四男として生れ、初め医学校に学んだが、間もなく京都美術学校に転じ、つづいて東京美術学校に入学、明治44年卒業した。在学中より文展に出品して存在を明らかにし、連年温和にして多感な優作を発表、次第に名声を挙げた。大正9年美術学校教授、昭和2年帝国美術院会員となり、昭和15年には門下を率ゐて直土会を組総、16年その第1回展を開いて益々精進を重ねていた。昭和17年3月30日特旨を以て位1級を追陞せられ、正4位に叙せられた。なほ俳句、絵画等にも嗜むところがあつた。
略年譜
明治13年 2月29日和歌山県有田郡建畠喜助四男として生る
明治30年 大阪に出て医学校に学ぶ
明治36年 京都市美術学校入学
明治40年 東京美術学校入学
明治41年 文展「閑静」、文部省買上となる
明治42年 文展「ゆく秋」(褒状)
明治43年 文展「埃」(3等賞)
明治44年 3月彫刻選科卒業、文展「ながれ」(3等賞)
大正元年 文展「ねむり」「磯の女」(3等賞)
大正2年 文展「おゆのつかれ」
大正3年 文展「のぞき」(3等賞)、大正博覧会「こだま」(2等賞)
大正4年 文展「夜の深み」「まゝごと」(3等賞)
大正5年 文展「絶望」(特選)北村西望、国方林三、池田勇八と共に八ツ手会を組織「山の男」「女の首」を同会展に発表
大正6年 文展「子供」「激昂の人」(推薦となる)
大正7年 文展「山の蔭から」「あやふき歩み」、結婚す
大正8年 帝展審査員、以後毎年審査員となる、帝展「雀の子」「浴後の女」、日暮里にアトリエを建つ、下村観山、川端龍子等と南紀美術会を起す、「伊達巻」「虎」を同会展に出品
大正9年 2月東京美術学校教授となる、帝展「地上の讃」
大正9年 帝展「煩悶の人」「十八の女」、法隆寺舞楽面を作る、12月北村西望と曠原社を結成
大正11年 帝展「破局」「悔悟」、竹内栖鳳像を作る
大正12年 「ほたる」「柴田正重氏の首」「膝に吻する女」曠原社展に出品
大正13年 帝展「幻想」
大正14年 帝展「憩ふ女」、勧業銀行建築装飾を作る
大正15年 帝展「陽炎」、聖徳太子奉讃展「腰かけた女」「考へる女」
昭和2年 帝国美術院会員となる、帝展「生気」、北軽井沢に南紀美術倶楽部を新築、又楢ノ木山荘を建つ、「魔法使ひの女」「めだか」「花野」了了会展に出品
昭和3年 帝展「女の胸像」
昭和4年 帝展「若い女」
昭和5年 帝展「壷」
昭和6年 帝展「福原先生」
昭和7年 帝展「感に打たれた女」、「木村静彦氏像」「岡米吉氏像」を作る
昭和8年 帝展「H博士」
昭和9年 帝展「谷愛之助氏像」、姫井繁次氏像を作る
昭和10年 東邦彫塑院顧問となる、「牛の記念碑」を作る
昭和11年 改組文展審査主任、「十七の女」出品
昭和12年 帝国芸術院会員被仰付、文展「若い男」、「伊藤博文氏像」「本間氏像」「浜口吉兵衛氏像」を作る
昭和13年 文展「幸ちゃん」
昭和14年 文展「夢」、「藤山雷太氏像」を作る、東邦彫塑院展に「恩師の顔」「女の顔」を出品
昭和15年 紀元二千六百年奉祝展「頬杖」、「喜田君の首」(後に直土会に発表)「通洲事件慰霊碑」「今井五介氏像」を作る、直土会を組織
昭和16年 文展「坐せる女」、直土会1回展「井原氏の体」「井原氏の顔」「睦奥宗光」、「天使」(後に直土会展に発表)を作る
昭和17年 3月22日没

出 典:『日本美術年鑑』昭和18年版(76-77頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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