岡田三郎助

没年月日:1939/09/23
分野:, (洋)

帝室技芸員、帝国芸術院会員、東京美術学校教授、従3位勲2等岡田三郎助は、予て療養中のところ9月23日渋谷区の自邸に逝去した。享年71歳。9月25日青山斎場に於て神式を以て葬儀執行、11月11日青山墓地に埋葬した。
 明治2年1月12日佐賀県佐賀市に石尾孝基の四男として生る。幼名芳三郎。幼くして上京、旧藩主鍋島直大候邸内に寄寓す。明治20年東京帝国大学工科大学助教授曽山幸彦に就学し、初めて洋風画を学ぶ。此の年岡田正蔵の養嗣子となり岡田姓を称す。同24年明治美術会々員となる。師曽山の夭折後其の家塾を承継せる堀江正章、松室重剛の大幸館に留まり、25年修了す。26年黒田清輝、久米桂一郎と知り、彼等の薫陶を受く。28年第4回内国勧業博覧会に「初冬晩暉」を出品して3等賞を受け、漸く画名を知らる。翌29年東京美術学校に西洋画科の新設さるるや、擢でられて助教授を拝命、又此の年白馬会の創立に参画し、其の第1回展覧会に20余点を出品す。此の時代その初期のアカデミツクな画風より印象派の傾向への転換期に在り。明治30年西洋画研究の為文部省より満4年間仏国に留学を命ぜられ出発す。専らラフアエル・コランに師事し、研鑚を遂げ、同35年1月帰朝す。此の年12月東京美術学校教授となる。翌36年第5回内国勧業博覧会に滞仏作品「読書図」を出品2等賞を受く。又此の時代まで白馬会に出品して活躍す。同40年東京府勧業博覧会審査官となり、自ら「某夫人像」を出品1等賞を受く。此の年文部省美術審査委員会創設さるや、その第二部委員となり、爾後官設展覧会の為に尽瘁するところ大であり、又自らもほとんど毎回力作を出品した。明治45年には藤島武二と図り本郷に洋風画指導機関本郷絵画研究所を創設し、民間に在つても後進の指導に尽力した。大正8年帝国美術院の創設と共に挙げられて会員となつた。同13年東京美術学校西洋画科主任を命ぜられた。昭和5年2月文部省より欧州出張を命ぜられ、各国の美術及び美術工芸の研究を遂げ、同年11月帰朝した。同9年帝室技芸員を拝命し、同10年改組後の帝国美術院会員に挙げられ、又満洲国に出張した。同11年には一時東京美術学校長事務取扱を命ぜられた。翌12年には多年の功労に依り文化勲章を拝受し、又新設の帝国芸術院会員となつた。13年より健康を害したが猶制作を続け、翌14年に至る。此の年3月呉内科に入院、6月には退院し小康を得しも、9月23日遂に立たなかつたものである。其の71年の生涯を顧るに、明治20年以後洋風画に携はつて終始変らず、その伎倆に於て衆に擢でたのみならず、永年東京美術学校及び本郷絵画研究所に於て後進の薫陶に当り、洋風画の発展に貢献するところ極めて大であり、その人格、伎倆に於て稀に見るところであつた。又彼の美術工芸方面に貢献せる点も忘却出来ないのである。
略年譜
年次 年齢
明治2年 1月12日石尾孝基四男として佐賀県佐賀市に生る。
明治4年 3 厳父孝基に伴はれ上京す。
明治8年 7 旧藩主鍋島直大候邸内に寄寓す。
明治13年 12 父と共に京都に移る。次で大阪に移る。
明治16年 15 父と共に再び東京に移る。
明治20年 19 岡田正蔵の養嗣子となり、東京府芝区に本籍を置く。帝国大学工学部助教授大野幸彦に洋風画を学ぶ。
明治24年 23 明治美術会々員となる。
明治25年 24 1月11日師大野幸彦病没す(東京帝大工学部保存履歴書)。大幸館(旧曽山塾)に入塾す。「長崎にて」(作品)、「倚る女」(作品)
明治26年 25 7月大幸館曽山塾修業、久米桂一郎の紹介にて黒田清輝と知る。後岩村透と知る。「矢調べ」(大幸館修業作品)
明治27年 26 10月天真道場に入門して黒田清輝、久米桂一郎の薫陶を受く。「初冬晩暉」(作品)
明治28年 27 「初冬晩暉」第4回内国博出品(3等賞) 10月「初冬晩暉」明治美術会秋季展出品。
明治29年 28 9月9日、東京美術学校助教授被任。同月、黒田清輝、久米桂一郎、岩村透等の白馬会創立に参加す。10月、第1回白馬会展に「夕日」以下21点出品。
明治30年 29 5月28日西洋画研究の為、文部省留学生として仏国に留学を命ぜられ、7月9日巴里著、8月1日、ラフアエル・コランの門に入り、同邸内に仮寓す。10月13日巴里に帰り、オテル・スフローに寓居を定む。アカデミイ・ビツチに入学してコランの薫陶を受く。10月、白馬会第2回展に「収穫」出品。
明治32年 31 10月白馬会第4回展に「自画像」出品、「ムードンの夕暮」(作品)「女肖像」(作品)
明治33年 32 「千九百年巴里博覧会」(作品)
明治34年 33 「読書」(作品)「伊太利の女」(作品)
明治35年 34 1月2日東京に帰著す。2月4日、東京美術学校西洋画授業を1週2日嘱託。白馬会第7回展に「老翁」以下5点を出品、12月5日、任東京美術学校教授、叙高等官6等。
明治36年 35 第5回内国博覧会に「読書図」出品、(2等賞)。「舞子」(作品)
明治38年 37 10月白馬会10週年記念展に「秋林の幻影」以下30余点出品。
明治40年 39 3月5日、東京勧業博覧会審査官を嘱託さる。尚同展に「某夫人像」を出品、1等賞を受領した。8月13日、美術審査委員会委員被仰付、第二部委員を命ぜらる。10月、白馬会11回展覧会「習作」出品。同月、第1回文展に「大沢博士肖像」、肖像(婦人像)外1点出品。作品、「紅衣夫人」「某夫人像」
明治41年 40 10月第2回文展「小池博士肖像」外2点出品。作品「萩」
明治42年 41 10月第3回文展「大隈伯爵夫人肖像」外2点、出品。
明治43年 42 1月東京美術及び美術工芸展評議員嘱託。7月美術審査委員会委員仰付、第二部員拝命。5月白馬会第3回展に「女のあたま」(画稿)「少女」出品。9月伊国万国博覧会出品鑑査委員嘱託。10月第4回文展「ひなた」「くもり」出品。
明治44年 43 8月美術審査委員会委員仰付、第二部員被命、10月第5回文展「湯場にて」出品。
明治45年(大正元) 44 3月藤島武二と共に本郷絵画研究所を設立す、6月第6回美術審査委員会委員被付、第二部員被命。10月第6回文展「偶感」出品。
大正2年 45 10月第7回文展「凝視」「女の顔」出品
大正3年 46 10月、光風会第3回展覧会に「ぬいとり」出品。
大正4年 47 8月美術審査委員会委員被仰付、第二部員被命。同月、第3回図案及応用美術審査委員。10月第9回文展、「黒き帯」外2点出品。
大正5年 48 8月美術審査委員会委員被仰付、第二部員被命、10月第11回文展「ヨネ桃の花」出品。
大正6年 49 2月光風会第5回展「桃の花」「白きベエール」出品。9月美術審査委員会委員被仰付、第二部員被命。10月第11回文展「初夏」「花野」出品
大正7年 50 9月第6回工芸展覧会審査員嘱託、同月美術審査委員会被命。10月第12回文展「忍路」「北国の雪」出品。
大正8年 51 7月工芸審査委員被仰付、8月第一部員兼第二部員被命。9月帝国美術院会員被仰付。10月第1回帝展「ネムの花」出品。
大正9年 52 9月工芸審査委員被仰付、10月第2回帝展「支那絹の前」出品。
大正10年 53 7月勅任官待遇、9月工芸審査委員被仰付。10月第3回帝展「榕樹の森」出品。
大正11年 54 3月平和博覧会審査委員嘱託。5月朝鮮美術審査委員嘱託。9月工芸審査委員会委員被付10月第4回帝展「真野博士の肖像」出品。
大正13年 56 10月第5回帝展「水辺」。12月東京美術学校西洋画科主任被命。
大正14年 57 2月光風会展「北国の春さき」。同月会長として本郷絵画展覧会を組織、6月第1回展「裸婦」「菊」出品。10月第6回帝展「裸婦」2点出品。
大正15年(昭和元) 58 5月第1回聖徳太子奉讃展覧会「掛を着たる女」出品。10月第7回帝展「古き昔を偲びて」出品。
昭和2年 59 10月第8回帝展「山川先生の肖像」出品。
昭和3年 60 1月第3回本郷絵画展覧会「来信」出品。8月満洲出張。
昭和4年 61 第4回本郷絵画展覧会「風景」出品。
昭和5年 62 1月春台美術第5回展覧会「麻の着物」出品。2月欧洲各国へ出張被命。
昭和6年 63 春台美術第6回展覧会「ヴエルサイユとコローの池」出品。「薔薇」(作品)
昭和7年 64 第7回春台美術展覧会「薔薇」「仙石原」出品。
昭和8年 65 5月光風会展「イスタンブルにて」、第8回春台展覧会「金時山」出品。3月工芸審査委員被仰付、第一部兼第二部員被命。
昭和9年 66 5月、光風会第21回展覧会「慶州仏国寺」「菅ノ平」出品。4月工芸審査委員被仰付。第一、二部員被命、12月帝室技芸員被命。
昭和10年 67 1月第14回春台美術展覧会「伊豆の東海岸」出品。4月工芸審査委員被仰付、第1、2部員被命。6月、帝国美術員会院被仰付。12月満洲国出張被命。
昭和11年 68 1月第11回春台展覧会「長野の水源地」出品。4月工芸審査委員被仰付、第一、二部員被命。同第26回光風会展覧会「鏡川の夕」出品。6月東京美術学校長事務取扱被命、9月同職被免。文部省美術展覧会委員被仰付。
昭和12年 69 2月第12回春台展覧会「岩越国境」出品。「人物」(作品)
昭和13年 70 2月光風会第25回展覧会「山中湖」出品。
昭和14年 71 第10回春台美術展覧会「河口湖鵜の島」出品。3月東京帝大病院呉内科入院、6月退院、9月23日於自宅永眠、従3位に追陞せらる。

出 典:『日本美術年鑑』昭和15年版(120-122頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「岡田三郎助」『日本美術年鑑』昭和15年版(120-122頁)
例)「岡田三郎助 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8504.html(閲覧日 2024-04-24)

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