松岡映丘

没年月日:1938/03/02
分野:, (日)

 帝国芸術院会員松岡映丘は近年心臓性喘息を病み療養中3月2日小石川雑司ヶ谷の自宅で逝去した。享年58歳。
 本名輝夫、明治37年東京美術学校を卒業、同41年同校助教授となり、大正3年文展に「夏立つ浦」を出品、大和絵に新機軸を示して注目され、次で5年吉川霊華、平福百穂等と金鈴社を組織した。文展にはその後「室君」、「道成寺」、「山科の宿」を出品して特選を贏ち得た。同7年美校教授、8年帝展審査員に就任、同10年門下を率ゐ新興大和絵を提唱する絵画運動「新興大和絵会」を創立した。昭和4年帝展出品の「平治の重盛」が院賞となり翌5年伊太利展開催に際し渡欧、同年帝国美術院の会員を仰付られた。同7年の帝展には「右大臣実朝」を出品。同10年東京美術学校教授を辞し、国画院を創立して盟主となり、大和絵による新民族絵画の建立を提唱、同12年の第1回展に六曲一双屏風「矢表」を出品したが、之が大作の絶筆となつた。
 制作の上では人物画を得意とし、武者絵を最も多く作つたが、常に典雅なる画格を備へ、又「室君」「伊香保の沼」等に於ては優婉な一面を発揮した。大正3年の「夏立つ浦」以来従来の土佐絵を現代的に再生し、普遍化するに大なる指導的役割を果した。
 尚古来の絵巻物、武具服飾等の故実の方面に造詣深く、又教育者としても優れた業績を挙げ、更に演劇方面に貢献せる処も少なくなかつた。
略年譜
年代 年齢
明治14年 7月9日兵庫県神崎郡田原村に生る。(松岡操五男)
明治32年 19 東京美術学校日本画科に入学、丹青会展「北の屋かげ」出品
明治37年 24 東京美術学校日本画科主席卒業
明治38年 25 神奈川県立高等女学校教諭兼神奈川県師範学校教諭となる
明治40年 27 神奈川県女子師範学校教諭を兼任、明治40年8月右教職を辞す
明治41年 28 東京美術学校助教授となる
大正元年 32 第6回文展「宇治の宮の姫君達」出品
大正2年 33 第7回文展「住吉詣」褒状、宮内省御買上
大正3年 34 第8回文展「夏立つ浦」
大正4年 35 第9回文展「御堂関白」3等賞、政府買上
大正5年 36 吉川霊華、平福百穂等と金鈴社を組織、第1回展「いでゆの雨」「若葉の山」「春光春衣」、第10回文展「室君」特選制最初の首席
大正6年 37 金鈴社第2回展小品数点、第11回文展「道成寺」特選2席
大正7年 38 東京美術学校教授に任ぜらる 金鈴社第3回展「枕草紙絵巻」其他、第12回文展「山科の宿」特選主席
大正8年 39 東京女子高等師範学校教授を兼任 金鈴社第4回展「紅玻璃」「燈籠大臣」、第1回帝展「目しひ」 第1回帝展審査員に推挙さる、御神宝桧扇絵の揮毫を嘱託さる
大正9年 40 金鈴社第5回展「伊豆の絵巻」 第2回帝展審査員
大正10年 41 金鈴社第6回展「銀鞍」其他、第3回帝展「池田の宿」 第3回帝展審査員、新興大和絵会結成さる
大正11年 42 金鈴社第7回展「更級日記」其他、第4回帝展「霞立つ春日野」 3月平和記念東京博審査官嘱託、金鈴社解散
大正12年 43 日本画会客員となる
大正13年 44 第5回帝展審査員
大正14年 45 第6回帝展「伊香保の沼」、第6回帝展審査員
大正15年 46 第7回帝展「千草の丘」
昭和2年 47 明治天皇御神像奉納
昭和3年 48 第9回帝展「さ月まつ浜村」、同展審査員、静岡県茶業組合よりの献上画「富嶽茶園」を謹作、朝鮮ポスター展審査官、御大典奉納名古屋博及国際美術審査員
昭和4年 49 第10回帝展「平治の重盛」院賞
昭和5年 50 2月羅馬開催日本美術展の為渡欧、日本美術展「屋島の義経」「伊衡の少将」「時雨ふる野路」「東海」 第11回帝展「即興詩人」 帝国美術院会員仰付らる、新興大和絵会解散
昭和7年 52 第13回帝展「右大臣実朝」
昭和8年 53 5月第12回朝鮮美術展審査の為渡鮮 第14回帝展「花のあした」
昭和9年 54 第15回帝展「安土山上の信長」
昭和10年 55 9月国画院創立、東京美術学校教授を辞す
昭和11年 56 明治神宮聖徳記念絵画館壁画「神宮親謁」を完成、文展第1回展審査員
昭和12年 57 国画院第1回展「矢表」「後鳥羽院と神崎の遊女達」 帝国芸術院会員仰付らる
昭和13年 58 3月2日没

出 典:『日本美術年鑑』昭和14年版(107頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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