石本正

没年月日:2015/09/26
分野:, (日)
読み:いしもとしょう

 伝統や規範にとらわれず、自らの心を通して作品を描き続けた日本画家、石本正は9月26日、不整脈による心停止のため死去した。享年95。
 1920(大正9)年7月3日、島根県那賀郡岡見村(現、浜田市三隅町岡見)に生まれる。本名正(ただし)。幼少期には豊かな自然の中で小さな生き物と触れあい、素直な感性を培った。1927(昭和2)年岡見尋常小学校へ入学。2年生のときにおじから油絵の具を贈られ、担任の先生と使い方を試行錯誤する。33年島根県立浜田中学校(現、島根県立浜田高等学校)入学。この頃映画や音楽、文学に興味を持ち、独自に油絵も描いていたが、画家になろうとは考えていなかった。38年同校を卒業。40年京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)日本画科予科へ入学するが、伝統的な円山四條派の形式に則った授業に馴染めなかった石本はあまり授業に出席せず、関西美術院や華畝会の研究所などへ通い、石膏や人物のデッサンを学んだ。2回生への進級制作の折には、伊藤若冲の絵に触発され軍鶏を描いたという。44年同校を繰り上げ卒業し、学徒動員で気象第一連隊に配属、翌年復員。47年から大阪の高校で美術教師を務めながら作品を制作し、ボッティチェリの「春」をイメージした「三人の少女」で第3回日本美術展覧会(日展)に初入選を果たす。このときの作品は福田平八郎に激賞され、以後第5回展まで入選を重ねた。49年9月には京都市立美術専門学校助手となる。
 50年京都市立美術大学の先輩画家・秋野不矩の勧めで発表の場を創造美術展へ移し、同年「五条坂」「踊子」が入選。翌51年創造美術と新制作派協会が合同して新制作協会となり、その第15回展へ「影」「旅へのいざない」を出品して新作家賞受賞、同会の会友に推挙され、以後第37回展(73年)まで出品した。「踊子」「旅へのいざない」はいずれも女性群像で、石本が50年にパブロ・ピカソの「青の時代」に出てくる女性によく似たモデルと出会ったことから生まれた作品であるという。しかしこの時代の作品は当時、古くさいとして画壇に受け入れられず、石本は次第に自らの愛するロマネスク美術の壁画に見られる太い線を用いた作品を描くようになる。
 53年第17回新制作展へ、いずれも太い線を用いて描いた「高原」と「女」を出品、新作家賞を受賞する。作品は高く評価され、55年頃までこうした作品を描き続けるが、迎合的な制作に納得のいかない思いを抱いていた石本は、56年以降従来の花鳥画とはまったく異なる、擦り付けるような強い筆触を感じさせる鳥の絵を次々に発表する。同年の第20回展へは、木下順二脚本の舞台「夕鶴」を見て描いた「双鶴」、さらに「野鳥」の2点を出品し、同会日本画部の会員に推挙され、翌年の第21回展へは自ら編み出したペインティングナイフを用いる技法で描いた「樹根と鳥」を出品。いっときその技法が若い画家たちの間で流行したという。またこの頃より、石本は舞妓や芸妓を描こうと思い、祇園に通い始めた。58年京都の土井画廊で初の個展を開催。59年12月、加山又造横山操らと轟会(村越画廊)を発足させ、「横臥舞妓」「鶏」「丘の木」を出品、以降も第15回展まで出品した。60年10月村越画廊・彌生画廊主催「石本正個展」(文藝春秋画廊)開催、出品作の「桃花鳥」が翌年1月、文部省買上となる。また60年には京都市立美術大学講師となった。
 64年はじめての渡欧を果たし、憧れつづけたヨーロッパの中世美術に触れ、規範にとらわれない自由な美的感覚に共感。同年の新制作展から舞妓を題材とした作品を毎回発表する。石本は田舎出の娘が煌びやかに着飾った、華やかな中に孤独な翳りを見せる舞妓を描きたいとし、顔や手の黒い舞妓を発表、きれいごとではないリアリティがあるなどと評された。67年の第31回展へは、横たわる三人の裸の舞妓を描いた「横臥舞妓」を出品。68年5月「石本正風景展」(彩壺堂)を開催。70年には舞妓の作品ばかりを並べた「石本正人物画展」(彩壺堂)を開催した。このときの「横臥舞妓」などが「日本画における裸婦表現に一エポックを画した」として、翌71年第21回芸術選奨文部大臣賞(美術部門)を受賞。同年3月舞妓をテーマとしたシリーズで第3回日本芸術大賞(新潮文芸振興会)を受賞するが、以後はすべての賞を辞退した。この間、65年に京都市立美術大学助教授(70年教授)となり、69年11月には学生等とともにイタリアへ研修旅行に出かける。以後この旅行は慣例となり、ヨーロッパや中国、インドなどを訪れた。
 74年、新制作協会日本画部会員全員が同会を退会し、新たに創画会を結成。9月の第1回展へ石本は「鶏頭」を出品、以後毎回出品する。この頃から石本の女性像は舞妓ではない裸婦が中心となり、アンドレア・マンテーニャの「死せるキリスト」に触発されて描いた83年の「夢」(個展、東京セントラル絵画館)頃から背景に絨毯を描きこむようになった。86年3月京都市立芸術大学教授を退任し、同大学名誉教授となる。1989(平成元)年11月兼素洞にて花の作品ばかりを集めた「石本正「花」展」を開催。この頃から石本は物語性のある作品を描くようになり、映画の舞踏会シーンを思い浮かべて描いたという「牡丹」(89年、第16回創画展)や、花火をイメージしたという「菊」(94年)、また平泉・中尊寺の古面を思い出して描いたという「空蝉」(94年)など、対象を通して得たイメージを画面に表現するようになる。96年には初の本格的な展覧会となる「石本正展―聖なる視線のかなたに―」を開催、92年以降の近作37点と素描50点が展観された。2001年故郷である島根県那賀郡三隅町(現、島根県浜田市三隅町)に石正美術館が開館し、名誉館長となる。この開館を機に、石本はふるさとを意識した作品を描くようになり、創画展へも「幡竜湖のおとめ」(02年、第29回展)などを出品。03年10月には画一的な表現しか認めない当時の画壇に新風を吹かせたいという思いから、石本がはっきりと感動を覚えた作品のみを集めた「日本画の未来」展を開催。09年石正美術館の塔に長年の念願だった天井画を老若男女592人とともに制作する。また06年以降、創画展へは牡丹や薊などの花を描いた作品を中心に発表していたが、14年の第41回展へは薄物をまとい横たわるふたりの裸婦を描いた「裸婦姉妹」を出品、翌15年10月の第42回展へは舞妓を描いた「舞妓座像」が未完のまま出品された。

出 典:『日本美術年鑑』平成28年版(553-554頁)
登録日:2018年10月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「石本正」『日本美術年鑑』平成28年版(553-554頁)
例)「石本正 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/809156.html(閲覧日 2024-03-28)

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