江坂輝彌

没年月日:2015/02/08
分野:, (学)
読み:えさかてるや

 慶應義塾大学名誉教授である考古学者の江坂輝彌は2月8日、老衰のため死去した。享年95。
 1919(大正8)年12月23日、現在の東京都渋谷に生まれる。幼少期より考古学に関心を持ち、近隣の畑などをめぐって土器や石器の採集をしていたほか、大学進学以前から研究グループを結成し、活動を行っていた。また、日本における旧石器時代研究の第一人者である芹沢長介とは同年であり、この当時から親交があった。
 1942(昭和17)年、慶應義塾大学文学部史学科(東洋史)に入学。同時に陸軍に応召し、敗戦まで中国大陸等で軍務に就いた。その間にも軍当局の許可の下で調査活動を行っており、現地で表面採集した土器を戦後に資料として報告した後、中国浙江省博物館に寄贈している。敗戦後は46年に慶應義塾大学文学部史学科に復学し、55年に慶應義塾大学文学部助手、64年同専任講師、66年同助教授、71年同教授を歴任。85年3月、慶應義塾大学を定年退職と同時に、同名誉教授に就任。その後は、1996(平成8)年まで松坂大学政経学部教授を務めた。
 生涯を通して縄文時代を中心とした考古学に深い関心を持ち、全国的な視野をもって各地に自ら足を運び、資料の収集・研究を行った。自らの発掘調査で出土した土器に新たな型式を設定命名することもあり、そのような作業を通して縄文土器の全国的な編年を確立したことの意義は大きい。代表的な業績として山内清男と共著の『日本原始美術第1巻―縄文式土器』(講談社、1964年)が挙げられる。また、82年に提出された学位論文『縄文土器文化研究序説』は、同年に六興出版より書籍として刊行されている。さらに、こういった編年研究を通じて、縄文海進について論じたことも特筆される(「海岸線の進退から見た日本の新石器時代」『科学朝日』14巻3号、1954年)。
 このほか、土偶の研究にも精力的に取り組み、『土偶』(校倉書房、1960年)、『日本原始美術』第2巻(共著、講談社、1964年)、『日本の土偶』(六興出版、1990年)などの著作を残している。破損個所がなく完全な例の土偶が全くないこと、すべてが女性をかたどったものであることなどの学説は、現在でも広く受け入れられている。
 さらに、先史時代における日本と大陸との交流について研究するなど、その視野や問題意識は国内にとどまらなかった。代表的な著作として『韓国の古代文化』(学生社、1978年)、『先史・古代の韓国と日本』(共編、築地書館、1988年)などが挙げられる。また、そのような研究活動の一環として、国交が正常化する前の66年、韓国の研究者を招いて、熊本県内の貝塚遺跡にて共同調査を実施している。その後も留学生の受け入れなどを通して交流を深め、後進の育成に努めたほか、自身も韓国へ頻繁に赴き、視察などを行っていた。
 同じく66年には芹沢長介、坂詰秀一らと月刊誌『考古学ジャーナル』を創刊し、自身も論文だけでなく、動向や講座など多岐にわたる原稿を寄せた。同誌は日本唯一の考古学月刊誌として、2017年7月に第700号を発刊するに至っている。
 江坂はそれ以外にも、様々な場所で広範なテーマに関する個別論考を発表したほか、各地の遺跡発掘調査報告書の執筆に名を連ねるなど、その業績は膨大な数にのぼる。また、そのような専門的な調査研究を行う一方で、『縄文・弥生:日本のあけぼの』(共著、小学館、1975年)、『縄文式土器』(小学館、1975年)、『日本考古学小辞典』(共編、ニュー・サイエンス社、1983年)、『考古実測の技法』(監修、ニュー・サイエンス社、1984年)、『考古学の知識:考古学シリーズ1』(東京美術、1986年)など、多くの解説書や入門書の刊行にも関わり、日本における考古学という学問の普及に努めた。

出 典:『日本美術年鑑』平成28年版(529-530頁)
登録日:2018年10月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「江坂輝彌」『日本美術年鑑』平成28年版(529-530頁)
例)「江坂輝彌 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/808981.html(閲覧日 2024-03-30)
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