江見絹子

没年月日:2015/01/13
分野:, (洋)
読み:えみきぬこ

 日本絵画史上、先駆的な抽象表現を試みた女性画家の江見絹子は1月13日、心不全のため死去した。享年91。
 1923(大正12)年6月7日兵庫県明石市二見町に生まれる。本名荻野絹子。1940(昭和15)年3月兵庫県立加古川高等女学校卒業。翌年から43年まで、後に二紀会会員となる洋画家伊川寛の個人教授を受け、45年から49年まで神戸市立洋画研究所に学ぶ。この間の48年7月から50年9月まで神戸市立太田中学校に勤務。49年第4回行動展に「鏡の前」で初入選したのを機に神戸市から横浜市に転居。50年第5回行動展に「三裸」「ポーズ」を出品し「三裸」で奨励賞受賞。51年第6回同展に暗い背景の中に群像を描いた「夜の群像」を出品して新人賞受賞、会友推挙。52年第7回行動展に臥裸婦と座す群像を組み合わせた「むれ(1)」「むれ(2)」を出品し「むれ(2)」で行動美術賞受賞。同年女流画家協会展に「むれ(1)」「むれ(2)」を出品し、同会会員となる。53年第8回行動展に「三立婦」を出品し、行動美術協会で初めての女性会員となる。53年11月渡米。54年2月にアメリカ・カリフォルニア州サウサリトで個展を開催し「むれ(2)」等を展示。後、ニューヨークを経てヨーロッパに渡り、55年8月までパリを拠点にヨーロッパに滞在。ルーブル美術館に通い、西欧絵画を研究する一方で、当時パリで隆盛していたアンフォルメル様式や抽象絵画にも触れた。54年南欧を旅行し、ラスコーとアルタミラの壁画を見て衝撃を受け、「芸術とはなんであるか」を深く考えたことを契機として、作風が大きく変化し、対象を簡略化した形体でとらえる半抽象へと向かう。55年秋に帰国。56年8月シェル新人賞展に黄褐色の背景に茶色のフォルムを配した抽象画「生誕」を出品し、シェル美術賞(3等賞)を受賞。58年第2回シェル美術賞展に「象徴」を出品し、シェル美術賞(3等賞)を受賞。同年アメリカ・ピッツバーグのカーネギー研究所で開催された第41回ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展に「錘」を出品。60年第4回現代日本美術展に「リアクション1」「リアクション2」を出品、以後、5,6,7,9回同展に出品する。61年第6回日本国際美術展に「作品」を出品し、以後第8回展まで出品を続けた。61年神奈川県女流美術家協会を創立。62年第5回現代日本美術展に「作品Ⅰ」を出品して神奈川県立近代美術館賞を受賞。同年6月第31回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展に杉全直向井良吉川端実菅井汲とともに出品。日本の女性作家として初めての同展参加となった。同展に出品された「作品」「作品1」~「作品7」は、57年頃から行っていた、自作の油絵を池に浸しておき、支持体から剥離した絵具をすりつぶし、ふるいにかけて粒子をそろえて溶剤に浸した絵具を用いる方法で制作され、抑えた色調と重厚なマチエルを持つものであった。ヴェネチア・ビエンナーレ後は鮮やかな色彩が用いられるようになり、75年から86年までカンバス上にテレピン油ないし溶かした絵具を流す技法を取り入れて、画材の性質に委ねる表現を画面に取り込んだ。この頃、江見は「水、火、土、風の四大元素が私の主要なモチーフを形成してきた。今後もそれらを統合したところにあらわれるであろう宇宙的な空間を目指してゆくことになるだろう」(『現代美術家大百科』茨城美術新聞社、1980年)と語っており、形と色によって画面に動きや光が宿る制作を続けた。1991(平成3)年、横浜文化賞受賞。96年3月「江見絹子自選展」(横浜市民ギャラリー)、2004年4月に「江見絹子展」(神奈川県立近代美術館)、10年11月に「江見絹子」展(姫路市立美術館)が開催されており、04年、10年の展覧会図録に詳細な年譜が掲載されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成28年版(526頁)
登録日:2018年10月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「江見絹子」『日本美術年鑑』平成28年版(526頁)
例)「江見絹子 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/808956.html(閲覧日 2024-03-19)

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