中里斉

没年月日:2010/07/18
分野:, (美)

 現代美術家の中里斉は7月18日(日本時間)、ニューヨークの病院で死去した。7月中旬に自宅ではしごから転落し入院していた。享年74。1936(昭和11)年3月15日、東京府南多摩郡忠生村(現、東京都町田市)に生まれる。父は鉄道員、母は専業主婦で、両親はキリスト教(プロテスタント)を信仰していた。5人兄弟の長男。母の実家は、旧町田街道にあった紺屋「なるとや」で、その裏庭に伸子張りされた染物の連なり干された有様が原風景としてあることを後年追懐している。羽仁もと子の教育論を好んだ母の元、さかんにクレヨンで絵を描く幼少期であった。48年桜美林中学校に入学、54年桜美林高等学校を卒業。2年間浪人したのち、56年多摩美術大学美術学部絵画科(油画)に入学、在学中は大沢昌助らに学ぶ。60年同大学を卒業。卒業後は半年ほど『北海タイムス』の美術記者として北海道旭川市に勤務したのち、桜美林学園の専任講師となり中学・高等学校の美術、桜美林短期大学のデザイン学、色彩学を担当する。62年渡米、ウィスコンシン大学大学院に入学、専攻として絵画を、副専攻として版画を学ぶ。そのかたわら、通訳として日本の技術者を工場見学に案内しているうちに、システム・デザインに眼をひらかれる。64年ミルウォーキー、セント・ジェームス・ギャラリーで初個展を開催。同年ペンシルヴァニア大学美術大学院に入学、ピエロ・ドラツィオ、ニール・ウエリバーらに学ぶ。66年ロックフェラーⅢ世基金奨学金を受けニューヨークに移る。このころシステマティックに形成された線と色面を組み合わせた〈ペンシルヴァニア・シリーズ〉に取り組む。68年ヨーロッパと中近東を旅行し帰国、結婚。同年10月、多摩美術大学の専任講師となりデッサンを担当するかたわら、駒井哲郎の版画授業を手伝う。同年12月学園紛争により全学封鎖となったため、連日の教授会や自主ゼミへの参加。70年3月日本万国博覧会の古河パビリオンの壁画を制作。同年7月第5回ジャパン・アート・フェスティバル国内展示で、日本の伝統的な大工道具である墨壷を使用しカンバス上に直線を引いた絵画《マチス》により優秀賞(文部大臣賞)を受賞。同年8月第14回シェル美術賞展で佳作賞を受賞。同年11月青山・ピナール画廊で個展を開催。71年5月第10回現代日本美術展(東京都美術館)の招待部門に出品。同年12月現代日本美術展(グッゲンハイム美術館)に出品。71年学園闘争の緊張が募り体調を崩し、医者に転地を勧められる。ヨーロッパを旅行した後、渡米しニューヨークに居住、同年9月ペンシルヴァニア大学美術大学院で版画の専任講師となる。以後、ニューヨークに制作の拠点をおき、日本、アメリカで作品を発表。日本においては甲南高校アートサロン(1981年)、原美術館(1987年)、東京画廊SOKO(1997年)、村松画廊(2004年)、町田市立国際版画美術館(2010年)などで個展を開催し、「アメリカの日本作家」展(東京国立近代美術館、1973年)、「現代絵画の20年〈1960-70年代の洋画と新しい『平面』芸術の動向」(群馬県立近代美術館、1984年)、「日本の版画」(栃木県立美術館、1985年)、「絵画1977-1987」(国立国際美術館、1987年)、「断面アスペクト1979-1994」(ハラ・ミュージアム・アーク)など、現代日本の平面作品を検証する多くの企画展で作品が展観された。また82年から文化庁芸術家在外研修員の滞在先として20名あまり受け入れる。ペンシルヴァニア大学美術学部長を歴任。1970年代のニューヨークにあっても一貫して平面における抽象性を貫き、抑えたカラーフィールドの美しさとモノクロームの中に知的な線を維持し、平面作品において独自の世界を展開させた。2009(平成21)年日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによりインタビューが行われ、同団体のウェブサイトに公開された。

出 典:『日本美術年鑑』平成23年版(441-442頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「中里斉」が含まれます。
to page top