雨宮淳

没年月日:2010/02/08
分野:, (彫)
読み:あめのみやあつし

 彫刻家の雨宮淳は2月8日午前9時52分、心不全のため東京都文京区の病院で死去した。享年72。1937(昭和12)年4月18日彫刻家で東京美術学校彫刻科教授であった雨宮治郎の子として東京都に生まれる。61年日本大学芸術学部を卒業。在学中は映画を学んだ。大学卒業の年に彫刻家になる決心をし、加藤顕清に彫刻理論を学んだほか、父雨宮治郎に師事。63年に日展に「首(B)」で初入選。同年、日彫展にも初入選する。64年に日彫展で奨励賞を受賞し、日本彫塑会会員となる。65年日彫展で努力賞受賞。66年、第9回新日展に男性裸体立像「望」を出品して特選となる。翌年も第10回新日展に男性裸体立像「未来を背負う人間像」を出品して二年連続特選となった。初期にはもっぱら男性像をモティーフとしたが、72年から裸婦像を中心に制作するようになり、以後、裸婦の作家として知られるようになる。74年社団法人日展会員となる。83年東京野外現代彫刻展で大衆賞受賞。84年第14回日彫展に「独」を出品して第5回西望賞受賞。1991(平成3)年第23回日展に右足を踏み出す等身大の裸婦立像を表した「暁雲」を出品し、内閣総理大臣賞受賞。97年、直立してうつむく等身大の裸婦立像を表した「韻」を第28回日展に出品作し、第53回日本芸術院賞受賞を受賞。2001年に日本芸術院会員となる。64年に父の雨宮治郎が、94年には姉で彫刻家の雨宮敬子が芸術院会員となっており、親子姉弟続いての日本芸術院会員となった。初期から一貫してブロンズによる人物裸体像を主に制作し、対象の写実に基づきつつも、西洋の理想化された身体像に学んだ端正な作風を示した。コントラポストなど古典的なポーズを好み、男性像においては力強い、女性像においては静的な身振りによって、抽象的な概念を表現した。85年から03年まで宝仙学園短大教授として後進の指導に当たったほか、02年から05年まで日本彫刻会理事長をつとめた。日展出品略歴 第6回新日展(1963年)「首(B)」(初入選)、第9回(1966年)「望」(特選)、第10回(1967年)「未来を背負う人間像」(特選)、改組第1回日展(1969年)「靖献」、第5回(1973年)「杜若」、第10回(1978年)「爽籟」、第15回(1983年)「秋興」、第20回(1988年)「秋入日」、第25回(1993年)「晨暉」、第30回(1998年)「躍如」、第35回(2003年)「旭日昇天」、第40回(2008年)「トルソー」、第42回(2010年)「聡慧」(遺作)

出 典:『日本美術年鑑』平成23年版(428-429頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「雨宮淳」『日本美術年鑑』平成23年版(428-429頁)
例)「雨宮淳 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28480.html(閲覧日 2024-03-28)

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