増田三男

没年月日:2009/09/07
分野:, (工)

 彫金家で彫金の無形文化財保持者である増田三男は、9月7日、老衰のため自宅で死去した。享年100。1909(明治42)年4月24日、埼玉県北足立郡大門村に父伸太郎、母チカの7人兄弟の三男として生まれる。1924(大正13)年、埼玉県立男子師範附属尋常小学校を卒業、埼玉県立浦和中学校を経て、1929(昭和4)年、20歳で東京美術学校(現、東京藝術大学)金工科彫金部に入学する。大学では清水亀蔵(南山)、海野清らに学ぶ。34年、彫金部を卒業し、さらに同美術学校金工科彫金部研究科にすすみ、36年同研究科を終了する。在学中の33年、第14回帝展に「壁面燭台」が初入選する。研究科終了後は同校資料館で国宝をはじめとする文化財の模造制作に従事し、また個人的には柳宗悦が主宰した民芸運動に関心をいだき民芸論を研究した。この頃の工芸関係の公募展は帝展が最高権威であり、また国画会展の工芸部も有力であった。当時国画会工芸部は民芸派の作家が多く活躍しており、帝展の美術品としてのレベルの高さや技術力よりも、実際に生活の場で使える工芸作品が出品されていて、増田自身は師である清水南山らが出品していた帝展(のちに文展)と、国画会工芸部の両方に出品した。36年、11回国画会に出品した「筥」2点が初入選をはたしている。この国画会における工芸部門の創設に尽力した陶芸家富本憲吉に図案の指導を受け、以後増田は富本憲吉を生涯の師と仰ぐようになる。39年には第3回新文展出品の「銀鉄からたち文箱」が特選、42年の第17回国画会展では「野草文水指」が国画奨励賞を受賞した。戦時中はとくに金属使用の規制や奢侈品等製造販売禁止令などが発布されて金工作家はとくに苦境におちいったが、第3回新文展出品の「銀鉄からたち文箱」が入賞したことにより金属材料の配給を受け、その技術保存の立場から制作を続けることができた。第二次世界大戦中の44年、中学のときの母校である浦和中学の美術講師となり、以後76年に退職するまで30年以上にわたって木工芸の授業を担当した。62年、第9回日本伝統工芸展に初出品した「金彩銀蝶文箱」が東京都教育委員会賞を受賞したのを期に、その活躍の場を日本伝統工芸展とするようになり、69年、同展出品の「彫金雪装竹林水指」が朝日新聞社賞を受賞、1990(平成2)年、「金彩銀壺 山背」が保持者選賞を受賞した。91年、82歳で重要無形文化財「彫金」の保持者(人間国宝)に認定される。増田の作品は初期の第14回帝展「壁面燭台」(うらわ美術館蔵)や煙草セット(1937年・東京国立近代美術館蔵)等は、鉄の廃材を利用した当時としてはモダンな作品であった。40年代後半からは古文化財の模造によって培われた日本伝統の自然をイメージした小作品を生涯にわたって制作した。箱、壺、水指などを、銀をはじめ素銅、真鍮を打ち出し成形し、そこに菟、鹿や鴛鴦、蝶、梅や柳などの身近な動植物を意匠として、それを蹴彫、切嵌象嵌、布目象嵌によって表し、地には魚々子や千鳥石目を施した作が多い。また金や銀の鍍金による彩金の技法によって季節感、自然感を豊かに表現した。

出 典:『日本美術年鑑』平成22年版(475頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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