海津忠雄

没年月日:2009/07/21
分野:, (学)

 西洋美術史研究者で、慶應義塾大学名誉教授の海津忠雄は、7月21日午前3時45分、心不全のため湘南鎌倉総合病院にて死去した。享年78。1930(昭和5)年8月15日、東京都千代田区神田に鉄工所を経営する清作、ための子として生まれる。37年蒲田の小学校に入学。中学校時代は勤労動員として働く。48年慶応義塾高等学校に入り、51年4月慶応義塾大学文学部に入学、55年3月卒業。同年4月、慶應義塾大学大学院文学研究科哲学専攻に入学し、守屋謙二に師事する。60年3月、同博士課程単位取得退学。57年4月に同大学文学部副手に任用。助手、専任講師、助教授を経て、73年4月より同大学文学部教授となる。1994年3月、2年の任期を残して退任。同年4月に同大学名誉教授となる。その間、早稲田大学、学習院大学、成城大学等に出講、また86年10月から1992(平成4)年までの6年間にわたり、慶應義塾女子高等学校長を兼任した。慶応義塾大学退任後の94年4月より2001年3月まで下関にある東亜大学大学院教授を務めた。三田哲学会会長。86年、文学博士。氏の優れた業績は、とりわけ北方ルネサンス美術研究に見出されるが、初期の研究対象はギリシア彫刻であった。これは、西洋美術史理解の鍵を「ギリシア彫刻とローマ建築」に見る氏の態度に由来する。アルカイック期の青年立像と浮彫彫刻における様式の平行現象、浮彫の発展形式、記念碑的な彫刻の発展段階といったテーマで研究を重ね、その成果は、「ギリシア浮彫の考察」(『美學』31号、1957年)、「浮彫の種類について」(『藝文研究』8号、1958年)、「初期ギリシアの青年像」(『哲学』43集、慶応義塾大学三田哲学会、1963年)に現れている。65年7月から1年間、スイス政府奨学金によりバーゼル大学に留学。これを機に、研究対象をドイツ・ルネサンス美術へと向ける。同地においてホルバイン研究を開始。また、美術史家ヨーゼフ・ガントナーに師事、ブルクハルト、ヴェルフリン、ガントナーに至る「バーゼル学派」を中心とする美術史方法論について研鑽を積んだ。帰国後の66年より、ホルバインをテーマとした論考を次々に発表、74年の『ホルバイン』(岩崎美術社)の刊行をもって「ホルバイン研究が一段落」した後は、ルーカス・クラーナハを対象に据える。「偉大な芸術家はその時代の最高の証人」との観点にたち、ホルバイン、クラーナハ、デューラーを中心に、作品の詳細な分析によって15世紀後半から16世紀の時代精神を明らかにした。ドイツ・ルネサンス美術研究はやがて学位論文「ドイツ美術と人文主義―著述者像としてのエラスムスの肖像―」(1986年)に結実していく。マサイス、デューラー、ホルバインによって描かれたエラスムスの肖像が、全て著述者像で描かれることに着目。背景に人文主義者による聖ヒエロニムス崇拝があることを検証、ドイツにおいてはそれが書斎における姿として描かれることを提示し、著述者像としてのエラスムス像が聖ヒエロニムス像の一つのヴァージョンであることを論証した。図像の「生育・発展」の過程を詳述した同学位論文は、4編の副論文とともに『肖像画のイコノロジー』(多賀出版、1987年)にまとめられている。研究対象への飽くなき追求は、美術史方法論や建築にも向けられた。方法論においては、自身をバーゼル学派の学統に位置づけ、ヴェルフリン、ガントナーの積極的な紹介に努めた。中でも最大の業績は、師守屋謙二(1936年、岩波書店)に続くハインリヒ・ヴェルフリン著『美術史の基礎概念―近世美術における様式発展の問題』の翻訳(付「解説」、慶応義塾大学出版会、2000年、2001年2刷、2004年3刷、2008年4刷)である。ガントナーへの敬慕、バーゼル学派への私淑はまた、その目を慶応義塾の先学澤木四方吉へと向けさせた。1913から14年にかけて、留学先のミュンヘンでヴェルフリンの講義を聴講した澤木を「学統の淵源」とし、『美術の都』の校訂出版(注及び解説、岩波文庫版、1998年)ならびに「審美学百年資料 澤木四方吉年譜」(加藤明子と共編、『哲学』94集、1993年)、慶応義塾図書館所蔵『サワキ文庫目録』(未刊)を作成し、澤木の再評価に務めた。特に「美術史家澤木四方吉の都市論」(『哲学』96集、1994年)では、澤木の著書『美術の都』を「都市論の先駆的業績」と位置づけ、一般には美文に彩られた紀行文として知られる同著を、文明批評ならびに文化史的考察の先駆的作品と評価し、澤木の先見性を示した。建築への造詣も深かった。ギリシア彫刻研究に始まった研究生活であるが、そもそも芸術世界への門戸は、高等学校時代に熱中した建築によって開かれた。その造詣の深さは『まぼろしのロルシュ―ヨーロッパ建築探訪』(1983年、日本基督教団出版局)、「ゼンパーのフォーラム計画」(『芸術学』5号、三田芸術学会、2001年)や書評「ヤーコプ・ブルクハルト『チチェローネ―イタリア美術作品享受の案内〔建築篇〕』瀧内槇雄訳」(『芸術学』11号、2007年)に現れている。キリスト教の敬虔な信者でもあった。聖書や神学に精通し、とりわけキリスト教美術研究においては、原典・原資料の提示ならびに各訳書との比較、さらには誤訳の指摘が随所でなされた。『愛の庭―キリスト教美術探求』(日本基督教団出版局、1981年)の他、レンブラントの版画作品に焦点を当て、レンブラント独自の聖書理解の世界に迫った『レンブラントの聖書』(2005年、慶応義塾大学出版会)が知られる。研究に対する態度は厳格そのものであり、学問上の誤謬や怠慢は決して認めず、教育者として峻厳な態度を以て多くの後進を育てた。家族が「研究意欲と情熱が衰えないこと鬼のごとし」と評したように、死の間際まで執筆を続けた。主要な著作は下記の通りである(本文中に挙げたもの、翻訳並びに2008年までの論文は除く)。2008年までのより詳細な著作目録は、『芸術学』11号(2008年)を参照のこと。

『ホルバイン 死の舞踏』(岩崎美術社、1972年)
『世界の素描8・クラナッハ』(講談社、1978年)
『中世人の知恵―バーゼルの美術から』(新教出版社、1984年)
『肖像画のイコノロジー―エラスムスの肖像の研究』(多賀出版株式会社、1987年)
『ホルバイン 死の舞踏―新版』(岩崎美術社、1991年)
『レンブラントをめぐって ブルクハルト、ヴェルフリン、ガントナーのレンブラント論』(かわさき市民アカデミー出版部、2001年)
『ヨーロッパ美術における死の表現―中世民衆の文化遺産「死の舞踏」』(同上、2002年)
『ホルバインのパトロンたち―芸術家と社会』(同上、2002年)
『クラーナハの冒険・図像学へのいざない』(同上、2003年)
『デューラーとレンブラント・版画史の巨匠たち』(同上、2003年)
『レンブラントのアブラハム物語 1650年代のレンブラント』(同上、2004年)
『デューラーとその故郷』(慶応義塾大学出版会、2006年)
『ホルバインの生涯』(同上、2007年)
「レンブラントの放蕩息子―窓のモティーフ」(所収、海津忠雄・東方敬信・茂牧人・深井智朗著『思想力―絵画から読み解くキリスト教』(キリスト新聞社、2008年)
「福沢諭吉の『芸術』の概念」(所収『福沢諭吉と近代美術』、慶応義塾大学アート・センター、2009年)

出 典:『日本美術年鑑』平成22年版(471-473頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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