森田茂

没年月日:2009/03/02
分野:, (洋)
読み:もりたしげる

 洋画家の森田茂は2日午後9時20分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。享年101。1907(明治40)年3月30日、茨城県真壁郡下館町に生まれる。1913(大正2)年、下館男子尋常高等小学校(現、下館市立下館小学校)に入学。その後、父の転任により、東京と下館の間で転居を繰り返すが、17年に両親とともに大阪市に転居し、第一西野田尋常小学校に転校。19年、同校を卒業して大阪府立今宮中学校に入学する。20年、栃木県立宇都宮中学校に転校し、24年に同校を卒業。同年、茨城県師範学校本科に入学。この頃から油彩画を描き始める。25年、同校を卒業して真壁郡大田尋常高等小学校の教員となる。26年、第3回白牙会展に「静物」で初入選。また、同年第7回帝展で同郷の熊岡美彦らの作品を見て感銘を受け、熊岡を訪ねて上京を勧められる。28年、大田尋常高等小学校を退職して上京し、東京市深川区臨海尋常小学校図画専科の教員となる。30年第7回槐樹社展に「静物」で初入選。翌年の第8回同展に「少年」で入選する。31年、熊岡美彦が設立した熊岡洋画研究所の夜間部に入所。33年、熊岡らによって前年に創立された東光会の第1回展に「白衣」で入選。34年第2回同展に「少女像」と道化師の舞台稽古を描いた「稽古」が入選。「稽古」でK氏奨励賞を受賞する。同年第15回帝展に旅芸人の姿を描いた「神楽獅子の親子」で初入選。35年から東光会無鑑査となる。36年文展鑑査展に飛騨の神事のひとつを描いた「飛騨広瀬の金蔵獅子」で入選。37年第5回東光会展に「組閣前夜(政人)」「組閣前夜(入京)」「組閣前夜(記者)」を出品して同会会友に推される。38年、第6回東光会展に「膺懲の夏」を出品し、同会会員に推される。第2回文展に「金蔵獅子」が入選し、特選となる。40年、人形を描き始め「森田茂画伯文楽人形・飛騨祭油絵展」(名古屋・丸善画廊)、「森田茂画伯洋画展」(高山市公会堂)を開催。同年の紀元二千六百年奉祝展には「人形をつくる男」で入選する。戦後の46年第2回日本美術展に「阿波人形」で入選し、以後、日展に出品を続ける。また、47年に再興した東光会展にも毎年出品する。49年、日展依嘱となる。58年、社団法人となった日展の会員となり、62年、日展評議員となる。同年、エジプト、フランス、イタリア、スペイン等を訪れ、エジプトの自然や文化に興味を抱く。63年第29回東光会展に「ロバに乗るエヂプト人」、同年第6回社団法人日展に「ラクダと人」を出品。65年には東南アジアを旅行し第31回東光会展に「バンコックの朝の礼拝」「バンコックの寺院と僧」、同年第8回社団法人日展に「バンコックの僧達」を出品する。66年、山形県羽黒山で初めて黒川能を観て農民の祭と一体化した素朴さと土着性に感銘を受け、同年の第9回日展に「黒川能」を出品して文部大臣賞を受賞。翌年には自ら能を習い始める。69年第1回改組日展に「黒川能」を出品。70年に同作品で昭和44年度日本芸術院賞を受賞。76年、日本芸術院会員となる。77年、東光会理事長、82年、日展顧問となる。86年、高山市民文化会館で「森田茂展」、茨城県立美術博物館で「森田茂展―画業60年の歩み」が開催される。1993(平成5)年文化勲章受章。97年には「卒寿記念森田茂展」が下館市文化ギャラリー、横浜そごう美術館等で開催され、2003年にはしもだて美術館開館記念展として「森田茂展」が開催された。森田の画業は初期から慎ましい庶民の生活の情景に取材した制作が多く、神事や奉納舞への興味もそれに根ざしていた。黒川能を描いた作品は、次第に対象の視覚的描写に留まらず、幾度も絵具を塗り重ねてつくる重厚なマチエールと抽象化されたかたちによって、場のエネルギーといった不可視のものを描き出すようになっていった。年譜、出品歴、関連文献等は展覧会図録および『森田茂画集』(求龍堂、1988年)に詳しい。

出 典:『日本美術年鑑』平成22年版(461-462頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「森田茂」『日本美術年鑑』平成22年版(461-462頁)
例)「森田茂 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28448.html(閲覧日 2024-04-19)

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