淸原啓一

没年月日:2008/10/11
分野:, (洋)

 日本芸術院会員で洋画家の淸原啓一は10月11日、肝細胞癌のため死去した。享年81。1927(昭和2)年6月27日、富山県砺波の農家に生まれる。45年に入学した富山師範学校で曾根末次郎に絵を学び、画家を志すようになる。学制改革のただ中にあった48年同校を卒業、曾根の計らいで新設間もない津沢中学校に勤め始める。当時同校が仮校舎としていた砺波高等女学校には同じく曾根に学んだ同郷の洋画家川辺外治がおり、そのアトリエでデッサンを学んだ。49年、第2回富山県観光美術展で棟方志功に推されてキレイ堂賞を受賞、以後上京までに度々棟方を訪ねる。50年に上京、明治大学政経学部3年に編入、卒業する52年に「椅子による女」で日展初入選を果たし、両親に反対されながらも東京に残り中学校教諭をしながら制作を続ける。この頃から、光風会等で活躍していた伊藤四郎の紹介で、“山羊の画家”とも呼ばれていた帝国芸術院会員の辻永に師事。その異名通り辻は身近にいた山羊をよく描いた画家であったが、淸原も自宅に鶏を飼いながらそれを画題とした。54年第10回日展で「鶏」が入選、以後鶏は生涯の画題となり“鶏の画家”として知られるようになる。力強く存在感のある黒のタッチがルオーを思わせるが、59年の第2回新日展で特賞となった「群鶏」では、マチエールを一変させ、全体に渋く抑えられた色調の中で、鶏冠の赤がアクセントとなり、またそのリズムが観る者の視線を誘い巧みに奥行きを出している。64年第50回記念光風会展で「鶏」が会員賞受賞。また井上和、梅津五郎、菅沼金六高島常雄寺島龍一、松木重雄ら日展洋画部会員とともに七人会展を開催、84年の第21回最終展まで出品する(後に浮田克躬、村田省蔵も参加)。さらに同年ヨーロッパ、エジプトなどを巡る約10ヶ月の旅に出る。68年、肝臓を患い約10ヶ月の療養生活を送る。69年第55回記念光風会展に「鶏」を出品、光風会審査員となる。73年光風会評議員。河口湖畔にアトリエを構えた74年、第60回記念光風会展に「小さな争い」を出品し第60回記念特別賞を受賞。ヨーロッパ旅行後いろどり鮮やかな色面構成を好んだ時期もあったが、この頃一旦落ち着きを見せる。また“鶏”や“群鶏”など限りなくシンプルであったタイトルが、この前年あたりから、鶏の動態や内面の動きを端的に説明するようになる。75年日展審査員推挙。78年、第64回光風会展にトリプティークを連想させる構図で描いた「鼎立」を出品し辻永記念賞を受賞。この翌年あたりから、赤や黄色などを大胆に塗り拡げた背景を好み、しばしば描くようになる。日展評議員となった86年の同展出品作「秋色遊鶏」は、琳派を思わせる装飾性と華やかな色使いが特徴で、その源流は75年頃に遡ってみとめられるが、ここにきて晩年の様式はほぼ定まったといえる。88年光風会理事。1991(平成3)年郷里の剱岳に泊まり込みで一週間の取材を敢行し連作に取り組む。94年日展内閣総理大臣賞、2002年光風会常務理事、日展理事。この年、前年の日展出品作「花園の遊鶏」で第58回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、同会員となる。本作品は印象派風の明るくやわらかな表現で溢れんばかりの生命力を詩情豊かに描いた、特に生彩を放つ代表作となる。03年日展常務理事。07年旭日中綬章受章。08年日展顧問。同年富山県立近代美術館で「淸原啓一回顧展 新花鳥画への道程」が開催される。この大回顧展のために、六曲一双の屏風仕立てで大作「紅葉遊鶏図」「新緑遊鶏図」を描き上げた。この年にはまた『淸原啓一画集』(求龍堂)が刊行される。主な個展としては他に、「清原啓一展―画業50年の歩み―」(富山県民会館美術館、1994年)、「清原啓一展―画業55年記念―」(高岡大和、1999年)、「清原啓一洋画展―日本芸術院会員就任記念―」(高岡大和、2004年)、「淸原啓一―遊鶏の賦―」(渋谷区立松涛美術館、2007年)などがある。

出 典:『日本美術年鑑』平成21年版(439頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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