野々村一男

没年月日:2008/02/11
分野:, (彫)

 日本芸術院会員の彫刻家、野々村一男は2月11日午前11時33分、老衰のため名古屋市の自宅で死去した。享年101。1906(明治39)年11月15日、愛知県名古屋市西区江中町に生まれる。生家は建築業を営んでおり、家業を継ぐよう期待されたが、反対を押して上京。東京美術学校(現、東京芸術大学)彫刻科塑造部に入学し、在学中の1929(昭和4)年第10回帝展に「座女」で初入選。36年3月、同校を卒業する。36年、「彫刻芸術の既成概念を廃して価値要素を学究的に考察する」ことをめざして、早川巍一郎加藤顕清、大須賀力らとともに日本彫刻家協会を結成。同年の文展鑑査展に「現實への飛躍」を出品。1937年7月、応召して中国大陸に渡り、38年6月に除隊。38年第2回新文展に「渡河戦」を出品して特選となる。52年第8回日展に「人間告訴」を出品し特選・朝倉賞受賞。58年第1回新日展に会員として「躍進」を出品、61年日展評議員となる。80年第12回改組日展にブロンズによる男性裸体立像「物との、はざま」を出品し、翌年同作品により日本芸術院賞受賞。81年日展理事、82年日展参事となる。88年、長年の業績により日本芸術院会員となった。1989(平成元)年喉頭がんのため声帯を失うが、制作の面では新局面を拓く。従来、重力に逆らうことなく立つ、あるいは座るポーズを基本とする男性、女性の裸体像によって抽象的概念を表現していたが、右ひざを曲げて体を地面に並行に仰向けに倒した人体をとらえた2003年の第35回改組日展出品作「サハラサバク上空にて(日没も過ぎて地平線がなく成る寸前の感)」、飛翔する人体をとらえた04年の第36回改組日展出品作「ふりそそぐ宇宙線の音を聞き我が生存の心ふくらむ」や、浮遊する人体をとらえた第37回改組日展出品作「空中遊泳」などのように、日常性から離れた状況の人体像によって生命や自然観などをあらわす作品へと移行した。02年日本橋三越で「野々村一男彫刻展」を開催し、1933年から2002年までの70年にわたる制作の過程が跡づけられた。裸体全身像をモティーフとする塑像を得意とし、一貫して官展に出品して、彫塑におけるアカデミックな表現を模索し続けた。晩年はレリーフ作品が多くなる一方、茶器などの作陶も行ったほか、1966年の開学以来、愛知県立芸術大学で教鞭を取り、後進の指導に当たった。官展出品歴:第10回帝展(1929年)「座女」、第11回帝展不出品、第12回帝展「仰ぐ者」、第13回帝展「少女坐像」、第14回帝展「思凡」、第15回帝展「生」、昭和11年文展鑑査展「現實への飛躍」、第1回新文展(1937年)「或る感情」、第2回新文展「渡河戦」(特選)、第3回新文展「青年達」、紀元2600年奉祝展(1940年)「破殻」、第4回新文展(1941年)「感」(無鑑査)、第5回新文展不出品、第6回新文展「攻防」(招待)、第1、2回日展不出品、第3回日展(1947年)「男」(招待)、第4回日展「生存者」、第5回日展「青女」、第6回日展「立女(未完)」、第7回日展「始動」、第8回日展「人間告訴」(特選・朝倉賞)、第9回日展「青年」(無鑑査)、第10回日展「島嶼」(審査員)、第11回日展「野牛」、第12回日展「女帝ト野牛(試作)」、第13回日展「感」、第1回新日展(1958年)「躍進」(会員)、第2回新日展「示行」、第3回新日展「創伸」、第4回新日展不出品、第5回新日展「青」(評議員)、第6回新日展「植物学者伊藤圭介」、第7回新日展「手を持つ男」、第8回新日展「組織なき個」、第9回新日展「火」、第10回新日展「汎」、第11回新日展(1968年)「感」、第1回改組日展(1969年)「直情」(評議員)、以後、毎年出品、第5回改組日展(1973年)「守の宇宙」、第10回改組日展(1978年)「汎」、第15回改組日展(1983年)「山の風」(参事)、第20回改組日展(1988年)不出品、第25回改組日展(1993年)「我が地球生命萌ゆ」(顧問)、第30回改組日展(1998年)「宇宙での生存の意識」、第35回改組日展(2003年)「サハラサバク上空にて(日没も過ぎて地平線がなく成る寸前の感)」、第39回改組日展(2007年)「陸と空」(レリーフ)

出 典:『日本美術年鑑』平成21年版(424-425頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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