片岡球子

没年月日:2008/01/16
分野:, (日)
読み:かたおかたまこ

 日本画家で日本芸術院会員、日本美術院同人の片岡球子は1月16日午後9時55分、急性心不全のため神奈川県内の病院で死去した。享年103。1905(明治38)年1月5日、北海道札幌市に、醸造家の長女として生まれる。1923(大正12)年北海道庁立札幌高等女学校(現、北海道札幌北高等学校)補習科師範部を卒業後、女子美術専門学校(現、女子美術大学)に入学。実家では進学は嫁入り支度程度に考えており、すでに結婚相手も決められていたが、26年同校日本画科高等科を卒業すると婚約を破棄して東京に残り、画家になることを決意、自活のため、横浜市立大岡尋常高等小学校(現、市立大岡小学校)教諭となる。女子美術学校在学中より松岡映丘門下の吉村忠夫に師事し、また洋画家富田温一郎にデッサンを学んだが、帝展に落選を続け、勤務先の小学校の近くに住む中島清之の勧めで院展に出品。1930(昭和5)年第17回院展に「枇杷」が初入選し日本美術院の研究会員、39年第26回院展出品の「緑蔭」で院友に推挙される。42年院展の研究会で課題「雄渾」に対して御嶽山の行者を描いた作品が小林古径に注目され、激励を受ける。46年第31回院展で「夏」が日本美術院賞を受賞。同年中島清之を介して安田靫彦に入門。続いて48年第33回院展「室内」、50年第35回「剃髪」で日本美術院賞、51年第36回「行楽」で奨励賞、52年第37回「美術部にて」で日本美術院賞・大観賞を受賞し、同人に推挙された。この間51年には量感表現を勉強するため約一年間、彫刻家で東京芸術大学教授の山本豊市に彫刻デッサンの指導を受ける。55年には大岡小学校を退職するが、小学校教師としての歳月はその作風における初々しい素朴さを培うこととなった。同年女子美術大学日本画科の専任講師となり、以後助教授を経て65年に教授となる。54年第39回院展に「歌舞伎南蛮寺門前所見」を出品するが、歌舞伎、能、雅楽など伝統芸術の集約された世界との出会いが転機となり、院展の典雅な感覚から遠い作風ながら、このテーマを掘り下げることによって現代日本画の新生面を切り拓く。61年、前年の第45回院展出品作で能の石橋に取材した「渇仰」と個展により、芸術選奨文部大臣賞を受賞。また61年の第46回院展でも「幻想」が文部大臣賞を受け、日本美術院評議員となる。いっぽう60年代には日本各地の火山を取材旅行してエネルギッシュな作品を制作、65年第8回日本国際美術展で「火山(浅間山)」が神奈川県立近代美術館賞を受賞。その後は富士山をテーマに晩年に至るまで取り組み続ける。60年代半ばには美術評論家の針生一郎を中心とする日本画研究会に参加。66年愛知県立芸術大学開校とともに日本画科主任教授となり、その剛柔併せもつ人柄は学生たちの信頼を集め、多くの俊英を育てた。また大学を移ったのを機に、66年の第51回院展に足利将軍の三部作を出品してライフワークの「面構シリーズ」を開始し、武将や浮世絵師といった歴史上の人物をテーマに、彫刻や肖像画、文献等を研究して時代考証に独自の解釈を加え、生気みなぎる力強い人物画の連作を発表する。69年女流の美術家による総合美術展「潮」を結成、83年の最終第15回展まで毎回出品。72年パリで「富嶽三十六景」による個展を開催。74年第59回院展出品作「面構(鳥文斎栄之)」により、翌75年日本芸術院賞恩賜賞を受賞。78年神奈川県文化賞を受賞。79年自作を神奈川県立近代美術館、北海道立近代美術館へ寄贈。81年より日本美術院理事をつとめる。82年日本芸術院会員となる。83年以降は裸婦の連作にも取り組み、春の院展に出品する。86年には永年の日本画による人物探究の業績が評価され、文化功労者に叙せられる。1989(平成元)年文化勲章を受章。また同年中日文化賞を受ける。92年パリの三越エトワールで回顧展を開き、2005年には百歳を記念し、神奈川県立近代美術館葉山・名古屋市美術館・茨城県近代美術館で本格的な回顧展が開催された。

出 典:『日本美術年鑑』平成21年版(423頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「片岡球子」『日本美術年鑑』平成21年版(423頁)
例)「片岡球子 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28411.html(閲覧日 2024-04-19)

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