鶴岡義雄

没年月日:2007/10/27
分野:, (洋)
読み:つるおかよしお

 日本芸術院会員で洋画家の鶴岡義雄は10月27日、直腸がんのため東京都目黒区の病院で死去した。享年90。  1917(大正6)年4月13日、茨城県土浦市中城町に生まれる。父は義太夫の名手、母は三味線の師匠、芝居小屋や映画館を経営してきた芸能一家に育つ。旧制茨城県立土浦中学校(現、茨城県立土浦第一高等学校)在学時より絵画に興味を抱き、同校の先輩にあたる熊岡美彦の講習会に参加したおり勧められて画家を志すようになり、1937(昭和12)年日本美術学校(現、日本美術専門学校)に進学、林武に師事して洋画を学んだ。ここで織田広喜、鷹山宇一ら後の二科会幹部らとも知り合う。41年同校卒業、第28回二科展に「台湾蛮女」を出品し初入選を果たす。44年関東軍報道班としてハルピンに赴任、帰国後まもなく土浦で終戦を迎える。46年、服部正一郎を中心に二科会茨城支部を結成、創立会員として参加し、以後二科には毎回出品する。47年、第32回二科展に「化粧」ほか連作3点を出品し二科賞受賞。49年、服部正一郎らとともに創立会員として茨城洋画会を結成(54年の茨城美術家協会結成に伴い発展的解消)。同年二科会準会員。50年二科会員推挙。戦時中は風景・人物の写実描写が多かったが、50年代半ばからシュルレアリスムやキュビスム風の描写、ジオメトリックな構成絵画などに次々取り組む。初めてのスケッチ旅行で57年に北・中米、60年には西欧各国を訪れ、粗目のタッチではあるが細かに計算された構図・配色によるモダンな風景画を多数制作。66年、日本美術学校講師、69年サロン・ドートンヌ会員となる。70年、第55回二科展に「愛」「ムーラン・ルージュ」を出品して東郷青児賞受賞、翌71年二科会委員となる。73年、パリにアトリエを構えマドモアゼル・シリーズに取り組む。74年第59回二科展に「ソワル・ド・パリ」を出品し内閣総理大臣賞を受賞、この作品で同シリーズの耽美様式が確立され、この頃から舞妓も描くようになる。舞妓を描いた数ある作家の中でも鶴岡は、西洋的造形思考に立脚して描写を行ったところにその独自性がみとめられる。舞妓を描いた主な作品には、シュルレアリスム的手法による「舞う」「京の四季」、また遊びに興じる素顔の舞妓や出番待ちの場面を幻想的に描いた「歌留多」「合わせ鏡」などがある。80年二科会常務理事就任。81年インターナショナルアメリカ展グランプリ。86年『鶴岡義雄画集』(日動出版)が刊行される。第74回二科展に「舞妓と見習いさん」を出して翌1990(平成2)年日本芸術院賞を受賞。93年、日本美術学校名誉教授就任、勲四等旭日小綬章受章。94年日本芸術院会員。96年日本美術学校名誉校長に就任。2002年二科会理事長、06年同会名誉理事就任。90年代以降は日本の初期シュルレアリスムを想わせる作風が現れ、再び幾何学的、抽象的な作品が多くなる。主な個展に「鶴岡義雄展」(日動サロン、1971年)、「“京洛四季の舞妓”鶴岡義雄展」(日動画廊、1980年)、「画業60年鶴岡義雄の世界展」(茨城県つくば美術館、1996年)、「卆寿記念・鶴岡義雄展」(しもだて美術館、2007年)などがある。

出 典:『日本美術年鑑』平成20年版(391-392頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「鶴岡義雄」『日本美術年鑑』平成20年版(391-392頁)
例)「鶴岡義雄 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28405.html(閲覧日 2024-03-28)

以下のデータベースにも「鶴岡義雄」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top