黒川紀章

没年月日:2007/10/12
分野:, (建)

 建築家の黒川紀章は10月12日午前8時42分、東京女子医科大学病院にて心不全のため死去した。享年73。1934(昭和9)年、愛知県名古屋市に生まれる。53年東海高校卒業後、京都大学工学部建築学科に進学。57年に卒業後、東京大学大学院に進み、64年同博士課程単位取得退学。在学中の62年に株式会社黒川紀章建築都市設計事務所を設立、死去まで同社代表取締役。東大大学院では磯崎新らとともに丹下健三研究室に所属し、この時期からスケールの大きい都市計画構想を発表し始める。とくに、世界デザイン会議が60年に東京で開催されるにあたり、その企画に関わった他の若手建築家らとともに結成したメタボリズム・グループによる『METABOLISM/1960―都市への提案』で、建築界の枠を超えて注目を集めた。「メタボリズム」とは新陳代謝を意味し、高度成長期の激変する社会状況を受けて、その変化に有機的に対応しうる都市と建築の在り方を提唱しようとする建築運動であった。黒川は、菊竹清訓と並んで、この思想を最も直截的に具現化した建築作品を設計した。工場生産された交換可能なユニットが縦動線や設備を収納したコンクリートシャフトに挿し込まれた中銀カプセルタワービル(1972年)がその代表例である。丹下の全体構想のもと、黒川たち門下生が多くのパビリオン設計を担った70年の大阪万博を最後に、このような未来志向的な巨大都市構想は現実社会から受け入れられずに終わるが、近代主義の超克はその後も黒川の問題意識の核心にあり、「共生の思想」と言葉を変えて、社会に向け発信され続けた。持続的発展の必要性が共通認識となった昨今、彼らの運動の先駆性を再評価する動きもみられる。黒川紀章は、ある時代において日本人に最も知られた建築家であった。女優若尾文子との再婚など、華やかな「建築家」のイメージがメディアを通じて流布され、日本におけるこの職能の認知に果たした役割は大きい。その一方で、保守政治との接近なども手伝って、プロフェッショナルな建築界からは厳しい評価を浴びることも多く、むしろ海外での評価が高かった。手掛けた建築作品は数多いが、一貫して大規模な公共施設を得意とした。80年代からは、広島市現代美術館(1990年、日本建築学会作品賞)、奈良市写真美術館(1992年、日本芸術院賞)など、博物館や美術館を次々と設計している。また、90年代からは海外プロジェクトに積極的に参画し、クアラルンプール新国際空港(1998年)やゴッホ美術館新館(アムステルダム、1999年)など単体の建築にとどまらず、国際コンペで優勝したカザフスタンの新首都計画や中国広州市の珠江口地区都市計画など、若き日に実現できなかった壮大な都市構想を追い求め続けた感がある。上記以外の主な受賞歴に、86年フランス建築アカデミーゴールドメダル、1989(平成元)年フランス芸術文化勲章など。98年日本芸術院会員、2006年文化功労者。また、英国王立建築家協会国際フェロー、米国建築家協会名誉会員など、諸外国からの顕彰も多い。『都市デザイン』(紀伊国屋書店、1965年)、『メタボリズムの発想』(白馬出版、1972年)、『共生の思想』(徳間書店、1987年)、『建築論Ⅰ・Ⅱ』(鹿島出版会、1985・90年)、『新・共生の思想』(徳間書店、1996年)など、著作多数。

出 典:『日本美術年鑑』平成20年版(388-389頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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