吉原英雄

没年月日:2007/01/13
分野:, (版)
読み:よしはらひでお

 現代日本を代表する版画家吉原英雄は、1月13日膵臓がんのため死去した。享年76。1931(昭和6)年1月3日、広島県因島市に生まれる。17歳のときから近所の画家のもとに出入りし、クレパス画や水彩画、専門書に触れるうち美術の世界に引き込まれ、とりわけパスキンの水彩に惹かれるようになる。浪速大学(現、大阪府立大学)合格後間もなく喀血し入院、病状が快方に向かうと、二科会会員の彫刻家上田暁に弟子入りし、上田も講師を務める大阪市立美術研究所に通うようになる。52年からは、同じく講師であった遠縁の吉原治良のアトリエに通い、本格的に絵を描き始める。芸大・美大への進学志望から転向して、公募展を目指した吉原の初出品は54年の第2回ゲンビ展であった。ゲンビの中心的存在でもあった吉原治良主導の具体美術協会結成に関わるが55年に脱退、瑛九を代表とするデモクラート美術家協会に移る。「イワンの馬鹿」や「断章」、「都会の重心」「空の標識」といったシュルレアリスティックな油彩画を出品する一方、泉茂の影響でリトグラフを始める。57年、第1回東京国際版画ビエンナーレにリトグラフ「ひまわり」を出品し池田満寿夫とともに入選、泉茂も招待作家として参加したが、これを機にデモクラートは解散する。国際展に入選すること自体が珍しかった当時にあって、58年には第1回グレンヘン国際色彩版画トリエンナーレに「潜水」が入選。この頃から抽象への移行が現れ始め、その決定的作品となる「黒い流れ」は、機械的に描かれた短い線による表現で、続けて複数の円形を並置する構図や版画の紙を破る技法等を試した後、同一画面上で二つの相似した形を並べる方法を取り始める。65年からリトグラフと銅版の併用を始め、鳥の嘴と女性の肉体、原色のストライプを組み合わせた作品を多数制作した後、68年の第6回東京国際版画ビエンナーレに招待出品し同手法による「シーソーI」で文部大臣賞を受賞。米モード誌の写真から引用したスカートの女性モチーフを反復させた構図と鮮やかなブルーが印象的な本作品は、吉原の代表作であると同時に、日本におけるポップアートの記念碑的作品ともいえる。70年、第20回芸術選奨文部大臣新人賞受賞。その後リトグラフのみによる「ミラー・オブ・ザ・ミラー」シリーズ、70年代後半には銅版による「剥奪されたもの」シリーズ等を展開。78年に京都市立芸術大学教授に就任、若手を育てる一方で、自身は「ガラステーブル」「二つの地平」などのシリーズを手がける。以降晩年にかけて展開された「モノクロームの人々」「樹の聲・人の聲」「二つの地平―残像」などのシリーズではモノクロームの作品が主となる。1994(平成6)年紫綬褒章受章、翌年京都市文化功労者の顕彰を受ける。96年京都市立芸術大学名誉教授に就任。2002年勲三等瑞宝章を受勲。03年大阪市文化功労者の顕彰を受ける。01年町田市立国際版画美術館にて「吉原英雄の世界―色彩の誘惑・形のエロス―」が、05年ふくやま美術館において「吉原英雄:ポップなアート」展が開催された。

出 典:『日本美術年鑑』平成20年版(376-377頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「吉原英雄」『日本美術年鑑』平成20年版(376-377頁)
例)「吉原英雄 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28384.html(閲覧日 2024-04-19)

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