鳥居敏文

没年月日:2006/08/15
分野:, (洋)
読み:とりいとしふみ

 独立美術協会会員の洋画家鳥居敏文は8月15日午後2時10分、多臓器不全のため東京の病院で死去した。享年98。1908(明治41)年2月26日、新潟県村上市に生まれる。旧制村上中学校に学び、後に新制作協会で活躍する竹谷富士雄と親交が深く、ふたりとも美術部に在籍。中学校在学中に、同郷の矢部友衛に啓発されてマルクスを学ぶ必要を感じ、東京外国語学校(現、東京外語大学)独語科に入学。1931(昭和6)年に同校を卒業する。プロレタリア美術家同盟に参加し、太平洋美術研究所に学び画家を目指していた竹谷に誘われて、32年、シベリア鉄道でドイツに渡り、のちソヴィエト、ギリシャ、スペイン、イギリス、オランダを旅行する。33年、パリに定住し、アカデミー・グランショーミエールでデッサンを学び、シャルル・ブランに師事。また、パリ滞在中の画家林武のアトリエに通ってその制作に学ぶ。35年に帰国し、37年第7回独立展に「ロバに乗る少年」を出品。以後、一貫して独立展に出品する。39年第9回同展に「山の仲間」「子供たち」を出品して独立美術協会賞を受賞。40年第10回同展に「森の家族」「休息」を出品し、独立美術協会会友に推される。42年中国東北部(当時の満州)に写生旅行。43年第13回独立展に「家族の旅」「路傍」を出品して岡田賞受賞。同年国民総力決戦美術展に「鉱山に働く」を出品して朝日新聞社賞を受賞。同年の文展に「鉱山の娘達」を無鑑査出品する。44年文部省戦時特別美術展に「必中」を出品。46年独立美術協会会員となる。同年、日本美術会結成に参加。47年、日本アンデパンダン展を開催。また、美術団体連合展に出品する。52年美術家懇話会結成に参加し平和美術展を開催する。53年、美術懇話会は美術家平和会議と改称する。60年、米国サクラメント市クロッカー美術館で開催された「独立6人展」に出品。63年第31回独立展に「草の上」「野外静物」を出品して独立G賞を受賞。64年、林武門下生によるグループ「欅会」を結成し、79年まで毎年展覧会を開催する。67年、具象画家による「新具象研究会」を結成し、73年まで季刊誌「画家」を刊行する。70年、73年に南欧旅行。79年日本美術家連盟代表として韓国美術家協会を親善訪問。80年郡山市東苑現代美術館で自選展を開催。81年ソ連文化省招待によるソヴィエト写生旅行に参加する。82年独立美術協会会員10人による「叢人会」を結成する。83年、パリに旅行。87年新潟市美術館で「鳥居敏文展」が開催される。1989(平成元)年東京セントラル美術館で「鳥居敏文自選展」を開催。同年および90年にパリ旅行。91年『鳥居敏文画集』を刊行。96年居住する練馬区の区立美術館で「ねりまの美術 楢原健三鳥居敏文」展が開催された。1930年代に池袋周辺につくられた芸術家村、いわゆる池袋モンパルナスの一員であり、36年11月15日から30日まで池袋にあった香蘭荘、コティ、紫薫荘、セルパンで開催された池袋美術家倶楽部第1回展覧会に小熊秀雄、寺田政明桑原実、佐藤英男らとともに出品している。原色を多用する初期の独立展の作風の中で、穏やかな色調で労働者や市井の人々を描いて注目された。生涯、具象画に徹し、戦後は着衣の若者群像を室内や風景の中に配して、平和や自由への希求を表現した。ピカソの「ゲルニカ」、ドラクロアの「民衆をひきいる自由の女神」など著名な作品を画中に取り入れる手法でも知られる。9月17日午後3時から東京都千代田区飯田橋のホテルグランドパレスで「偲ぶ会」が開かれた。

出 典:『日本美術年鑑』平成19年版(375-376頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「鳥居敏文」『日本美術年鑑』平成19年版(375-376頁)
例)「鳥居敏文 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28372.html(閲覧日 2024-04-25)

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