富永直樹

没年月日:2006/04/11
分野:, (彫)
読み:とみながなおき

 日本芸術院会員の彫刻家富永直樹は4月11日午前9時56分、虚血性心不全のため死去した。享年92。1913(大正2)年5月18日、長崎市に生まれる。本名良雄。26年長崎県長崎中学校に入学。同校在学中に、同郷の彫刻家の官展出品作が街に展示されているのを見て、彫刻に興味を抱くようになる。1933(昭和8)年、東京美術学校彫刻科塑造部に入学。当時、同校では北村西望朝倉文夫建畠大夢が彫刻科で教鞭を取っており、主に北村西望に師事した。同校在学中の36年文展に、対象を写実的把握の上で理想化を加えたブロンズ像「F子の首」を出品して初入選。以後、官展に出品を続ける。38年東京美術学校彫刻科塑造部を卒業し、同校彫刻科研究科に進学、40年に同科を卒業する。50年、第6回日展に「殊勲者」を出品し特選受賞。同年、本名を良雄から直樹と改称する。51年、第7回日展にザイルを肩に立つ登山者をあらわした「山」を出品し前年に続いて特選受賞。52年、第8回日展にラグビーボールを抱えて一点を見つめるラガーをとらえた「主将」を無鑑査出品して、3年連続特選を受賞するとともに、朝倉賞を受賞。53年、日展審査員、54年同会員となる。同展が社団法人となって以降も出品を続け、62年評議員、73年理事に就任。この間、68年第11回日展に「平和の叫び」を出品して文部大臣賞受賞。71年には改組第3回日展に「新風」を出品し、翌年日本芸術院賞を受賞する。74年日本芸術院会員となり、79年に日展理事長に就任した。現在の日本彫刻会の前身である日本彫塑家倶楽部の第1回展(1953年)に「マドンナ」を出品して以降、61年に日本彫塑会、81年に社団法人日本彫刻会となる同会に出品を続け、1972年に同会理事、86年に同会理事長となった。この間の81年「北村西望富永直樹彫刻二人展」を神戸・大丸にて開催。83年大阪、東京の高島屋で「富永直樹彫刻50年展」を開催した。穏健な写実をもとに、理想化を加えた人物像を多く制作し、大分県庁前の「西洋音楽発祥記念碑」(1971年)、学習院中等科正門前の「桜咲く校庭(学習院生徒像)」(1978年)、大分市駅前の「大友宗麟公」(1982年)、長崎平和会館前の「原爆殉難教え子と教師の像」(1982年)など公共の場の彫刻も数多く制作している。ロダンの叙情的な作風よりも、ブールデルの構築的な造形を評価し、着衣の男性像を好んでモチーフとした。作品集に『富永直樹彫刻作品』(実業之日本社、1982年)、『富永直樹彫刻作品Ⅱ』(実業之日本事業出版部、1990年)がある。84年、文化功労者となり、1989(平成元)年、文化勲章を受章。長年、三洋電機のデザイン部門に勤務し、常務をつとめるなど、企業人の一面も持った。

出 典:『日本美術年鑑』平成19年版(367-368頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「富永直樹」『日本美術年鑑』平成19年版(367-368頁)
例)「富永直樹 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28360.html(閲覧日 2024-04-19)

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