大野五郎

没年月日:2006/03/07
分野:, (洋)
読み:おおのごろう

 洋画家の大野五郎は3月7日、慢性心不全のため東京都あきる野市内の病院で死去した。享年96。1910(明治43)年2月13日、父大野東一、母幹の五男として東京府下北豊郡岩淵町(現在の東京都北区)に生まれる。父東一は、当時の栃木県都賀郡谷中村の村長を務めていたが、08年に足尾銅山鉱毒事件のために離村していた。青年期に及んで実兄で詩人であった四郎の影響もあって絵画に関心をもち、26年、斉藤與里の紹介で藤島武二が指導する川端画学校に入学する。1928(昭和3)年、第3回一九三〇年協会展に「姉弟三人」など3点が初入選、第5回展まで出品した。この頃長谷川利行靉光井上長三郎を知る。29年、同協会の絵画研究所に入り、里見勝蔵に師事し、ゴッホ、フォーヴィスムの影響を深く受けることになり、原色と太い筆致を特徴とする画風の基礎を形成することとなった。また、ここで田中佐一郎中間冊夫森芳雄伊藤久三郎と知りあうことになる。30年に第17回二科展に「風景」「少女」が入選。31年、第1回独立美術協会展に「横向いた肖像」「Nの肖像」が入選、O氏賞を受賞した。この頃、兄四郎がバー「ユレカ」を開店、店を手伝うようになり、ここにあつまる小熊秀雄などの詩人たちとの交友がはじまる。42年横瀬喜久枝と結婚、44年には長男俊介が誕生した。その間の43年に井上長三郎寺田政明靉光鶴岡政男糸園和三郎松本竣介麻生三郎と新人画会を結成し、展覧会を翌年の第3回展まで開催した。46年に再興した独立美術協会の準会員に迎えられるが、翌年同会を脱退して自由美術家協会に参加。64年には、同協会を離れ、寺田政明森芳雄吉井忠とともに主体美術協会を結成した。以後、2005(平成17)年まで毎年出品をつづけ、同協会の結成会員として象徴的な存在となった。また昭和期の史的回顧展に出品されることが多く、88年に練馬区立美術館、広島県立美術館を巡回した「靉光展 青春の光と闇」、91年に板橋区立美術館にて開催された「昭和の前衛展 表現の冒険者たち」、同年に神奈川県立近代美術館にて開催された「松本竣介と30人の画家たち展」、08年に板橋区立美術館で開催された「新人画会展 戦時下の画家たち」等に戦前期の作品が出品された。その没後の同年4月に、「大野五郎―画業八〇年の軌跡」が、八王子市夢美術館にて開催され、初期作から05年までの作品67点が出品された。その画風は、自ら語るように酒を愛し、豪放磊落の性格を表したように、赤い輪郭線を特徴とするフォーヴィスムの流れを汲んだものであった。

出 典:『日本美術年鑑』平成19年版(366頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「大野五郎」『日本美術年鑑』平成19年版(366頁)
例)「大野五郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28358.html(閲覧日 2024-04-20)

以下のデータベースにも「大野五郎」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top