清家清

没年月日:2005/04/08
分野:, (建)
読み:せいけきよし

 建築家の清家清は4月8日午前10時、肺炎のため東京都大田区の病院で死去した。享年86。清家清は、1918(大正7)年京都市に生まれた。大阪を経て23年父清家正の神戸高等学校教授就任により神戸に移転、25年神戸市立須磨尋常小学校入学。1931(昭和6)年兵庫県立神戸第二中学校入学。36年東京美術学校建築科入学。40年東京外国語学校速成科(伊語)修了。41年東京美術学校卒業、府立高等工業学校講師(43年まで)、東京工業大学建築学科入学。42年アテネフランセ初等科修了。43年東京工業大学卒業、海軍に入る。青島方面特別根拠地隊、海軍施設本部、舞鶴海軍施設部、海軍機関学校(海軍兵学校舞鶴分校)を経て終戦を迎える。終戦時は海軍技術大尉。45年東京工業専門学校講師(~48年)。46年都立工業専門学校講師(~47年)、東京工業大学助手。47年東京工業大学講師、48年同建築材料研究所助教授、50年同建築学科助教授、62年住宅平面の規模についての建築計画的研究で工学博士、東京工業大学教授、74年同工学部長、77年東京藝術大学美術学部に配置換え、79年東京工業大学定年退官、名誉教授。80年東京藝術大学美術学部長、84年放送大学客員教授(~92年)、86年東京藝術大学定年退官、名誉教授。87年デザインシステム設立。札幌市立高等専門学校の設立に尽力し、1991(平成3)年に校長就任(~97年)。作品は住宅を中心とする。障子や畳など和風の要素を用い、日本の伝統建築が持つ線と面のコンポジションの美しさを現代住宅に表現した軽快な作品で知られる。日本の伝統をモダニズムに見事に融合した住宅作家として、戦後日本の現代住宅デザインをリードした。51年森博士の家、52年斎藤助教授の家、53年宮城教授の家、54年私の家、数学者の家。54年これら一連の住宅により日本建築学会作品賞受賞。同年来日した建築家グロピウスが斎藤助教授の家他を見学、その招きで55年渡米、欧州を回って帰国。同年、近年の日本住宅の建築設計により芸術選奨文部大臣賞受賞。その他の主な作品、受賞に60年九州工業大学記念講堂、61年東京国際見本市鉄鋼特設館、62年埼玉農林会館、小原流家元会館(74年神戸市建築文化賞)、島沢先生の家、64年東京オリンピック村メインゲート、久が原の家、66年乃村工藝社東京社屋、黄金の国舞台装置、70年日本万国博覧会国連館ほか、続私の家、東が丘の家、代々木の家、続久が原の家(77年吉田五十八賞)、71年オーストラリア政府文化賞、駒込の家、75年静清総合卸センター組合会館、77年伊豆・三津シーパラダイス(78年沼津市建築賞、79年BCS賞)、82年軽井沢プリンスホテル、89年倅の家、93年八景島シーパラダイス、94年札幌市立高等専門学校など。83年 紫綬褒章。89年勲二等瑞寶章。81~82年日本建築学会会長。89~93年東京建築士会会長。91年日本建築学会大賞、デザイン功労者。著書に、『家相の科学 建築学が発見したその真理』(光文社、1969年)、『日本の木組』(淡交社、1979年)、『やすらぎの住居学 100の発想』(情報センター出版局、1984年)など。 

出 典:『日本美術年鑑』平成18年版(385-386頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「清家清」『日本美術年鑑』平成18年版(385-386頁)
例)「清家清 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28328.html(閲覧日 2024-04-24)

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