中村敬治

没年月日:2005/03/24
分野:, (評)
読み:なかむらけいじ

 美術批評家の中村敬治は、東京都北区の病院で、3月24日胃癌のため死去した。遺志により、同26日、家族のみで密葬。享年68。1936(昭和11)年5月10日、山口市に生まれる。55年同志社大学文学部文化学科美学芸術学専攻に入学。59年同大学を卒業後、同大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程に入学、62年同課程修了。同大学文学部助手を経て、66年より86年まで専任講師を務めた。その間、72年アメリカ国務省の招聘によりアメリカの現代美術を視察、76年~78年フランス政府給費研修員としてパリに留学、82年ドイツ学術交流会(DAAD)によりドイツで滞在研修。同志社大学の助手、専任講師時代から、恒常的に同時代の美術動向に触れながら、新聞や雑誌に現代美術や実験映画の批評を執筆するかたわら、京都市内の画廊で現代美術の企画展を開くなどの活動を開始、フランスから帰国後の78年以降は、読売新聞夕刊に継続的に展評を執筆した(86年まで)ほか、『美術手帖』を中心に現代美術の批評やアンディ・ウォーホルやジャスパー・ジョーンズ等の作家論を執筆、精力的に評論活動を展開した。86年4月に、大阪の万博公園にあった国立国際美術館(2004年に、大阪・中之島に移転)に主任研究官(一時期、学芸課長)として転出してからは、「近作展2-野村仁」(87年7月)、「近作展7-今村源/松井知惠」(89年11月)、「芸術と日常-反芸術/汎芸術」展(90年10月)、「パナマレンコ展」(92年8月)、「彫刻の遠心力-この十年の展開」(92年10月)等を担当したほか、パリ留学時代から親交の深かった工藤哲巳の仕事を振り返る「工藤哲巳回顧展-異議と創造」(94年10月)を開いた後、95年3月に同館を退職。同年4月に、新設準備段階にあったNTTインターコミュニケーション・センターに転出、97年4月に開館後は、同センター副館長・学芸部長として、「ビル・ヴィオラ ヴィデオ・ワークス」展(97年11月)、「荒川修作/マドリン・ギンズ展」(98年1月)、「『バベルの図書館』-文字/書物/メディア」展(98年9月)、「『針の女』-キム・スージャのヴィデオ・インスタレーション」展(2000年5月)等を企画した。01年3月に同センターを退職後は、特定の組織に属さず、より自由な立場で批評活動を続けた。01年の8月から03年3月まで『新美術新聞』に連載した「新美術時評」では、意表をつく見出しと奥の深い諧謔に溢れた批評で読者を楽しませた。大学教員から美術館を去るまでの関西での30年、そして「芸術の方が技術に盲従している場合がやたら多い」(「メディア・アートのあやうさ」『読売新聞』2001年4月11日夕刊)ことを百も承知で勤めたメディア・アートの現場(ICC)を拠点とした東京での10年。その間、国内外の美術の現場を飽くことなく(というより飽き果てるまで)渉猟し、独自の嗅覚で特異な資質の美術家たちを発掘すると同時に、洞察に富んだ鋭い批評を残した。実験映画やヴィデオ・アートについては、その草創期から詳しく、関連の上映会に足しげく通って丁寧な分析を行った。最晩年は、関東圏の若手の画家たちと自由闊達な勉強会をしばしば開いて互いを刺激しあい、亡くなる直前には「横浜のデュシャン-展示について」(『新美術新聞』2005年3月1日)と題した展評を病床で執筆、最後までその厳しい筆鋒は衰えなかった。著書として、『現代美術/パラダイム・ロスト』(書肆風の薔薇、のち水声社に改名、1988年8月)、『現代美術/パラダイム・ロストⅡ』(水声社、1997年8月)、『現代美術巷談』(水声社、2004年7月)がある。これら三冊に、70年代半ば以降の著述のほとんどが網羅されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成18年版(385頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「中村敬治」『日本美術年鑑』平成18年版(385頁)
例)「中村敬治 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28327.html(閲覧日 2024-04-20)

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