加藤卓男

没年月日:2005/01/11
分野:, (工)
読み:かとうたくお

 陶芸家で重要無形文化財保持者(工芸技術「三彩」)の加藤卓男は、1月11日午前11時45分、肺炎のため岐阜県多治見市の病院で死去した。享年87。1917(大正6)年9月12日、江戸時代から続く美濃焼窯元五代目加藤幸兵衛の長男として、岐阜県土岐郡市之倉村(現、多治見市市之倉町)に生まれる。1935(昭和10)年岐阜県立多治見工業学校(現、多治見工業高等学校)を卒業後、京都の商工省陶磁器試験所に入所。37年同試験所終業後、帰郷し家業の福寿園丸幸製陶所(現、幸兵衛窯)に勤務。翌38年より従軍。転属先の広島市で残留放射能により被爆。その後10年ほど入退院を繰り返す生活を余儀なくされたが、54年第10回日展に「黒地緑彩草花文花瓶」を出品し初入選。61年陶磁器意匠と技術の交換のため、フィンランド工芸美術学校に留学。この間、休暇を利用してはじめて中東各地の陶器の産地を訪れ、そこで古代ペルシア陶器の美に触れる。帰国後は本格的にペルシア陶、なかでもラスター彩の研究を志すようになった。63年第6回新日展に出品した「花器 碧い山」が特選北斗賞を受賞、翌64年には第3回日本現代工芸美術展で「流」が現代工芸賞を受賞。65年第8回日展で「油滴花器 煌」が再び北斗賞を受賞。作家活動の一方で続けていたペルシア陶研究の成果は、昭和50年代に自身のラスター彩作品として結実。ラスター彩とともに同じペルシア系統の青釉にも取り組み、独創的なフォルムと鮮やかな青色が融合した作品を制作した。80年には宮内庁正倉院事務所より正倉院三彩の「三彩鼓胴」と「二彩鉢」の復元制作を委嘱され、約7年間におよぶ研究と試作を経て復元に成功する。この経験と技術を生かし、自身の創意による三彩の仕事にも取り組んだ。88年紫綬褒章受章。1995(平成7)年重要無形文化財「三彩」の保持者に認定された。ペルシア陶に魅せられ、研究のため訪れた中東の古窯址発掘現場で、織部に似た陶片を発見して以来、加藤は、ペルシアから日本へと広がる壮大なやきものの技術交流と発展史へと興味を広げた。しかし、古代のペルシア陶の技法を解明、再現することにとどまらず、作家として、古陶磁研究を自己の表現の手段として昇華させ、清新な現代の陶芸を創造した点で高く評価される。朝日陶芸展をはじめとして国際的なコンペティションでたびたび審査員を務め、陶芸界のリーダー的存在として果たした役割も大きい。トルコ、イスタンブールの国立トプカプ宮殿博物館(86年)をはじめ国内外で開催した個展多数。2002年4月1日から30日まで『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載(『砂漠が誘う―ラスター彩遊記』日本経済新聞社、2002年加筆所収)、作品集に『ラスター彩陶 加藤卓男作品集』(小学館、1982年)がある。没後、岐阜県現代陶芸美術館で回顧展「加藤卓男の陶芸展―陶のシルクロード」(06年)が開催された。 

出 典:『日本美術年鑑』平成18年版(379-380頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「加藤卓男」『日本美術年鑑』平成18年版(379-380頁)
例)「加藤卓男 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28318.html(閲覧日 2024-04-20)

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