柳原義達

没年月日:2004/11/11
分野:, (彫)
読み:やなぎはらよしたつ

 新制作協会会員で文化功労者の彫刻家柳原義達は11月11日午前10時7分、呼吸不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年94。 1910(明治43)年3月21日、神戸市栄町6丁目に生まれる。1928(昭和3)年3月兵庫県立神戸第三中学校(現、長田中学校)を卒業。在学中、神戸第一中学校の教師で日本画家村上華岳の弟子であった藤村良一(良知)に絵を学び、卒業後、京都に出て福田平八郎に師事するうち、『世界美術全集 33巻』(平凡社、1929年)に掲載されていたブールデル「アルヴェル将軍大騎馬像」の図版に感銘して、彫刻家を志す。31年上京して小林万吾の主宰する画塾同舟舎に学び、同年東京美術学校彫刻科に入学。朝倉文夫北村西望建畠大夢らが指導にあたっていたが、高村光太郎清水多嘉示らに強い影響を受ける。同期生には峰孝、日本画の髙山辰雄、洋画の香月泰男らがおり、3期下の彫刻科に佐藤忠良舟越保武がいた。東京美術学校在学中の、32年第13回帝展に「女の首」が入選。33年第8回国画会展に「女の首」で入選し国画奨学賞を受賞する。以後同展に出品を続ける。36年3月東京美術学校を卒業。37年スタイル画家小島操と結婚。同年第12回国画会展に「立女(女)」「坐像(女)」を出品して同会同人に推挙される。39年第14回国画会展に「R子の像」「山羊」を出品し国画会賞を受賞するが、同年、本郷新吉田芳夫佐藤忠良舟越保武らとともに同会を脱退し、新制作派協会彫刻部の創立に参加、以後同会に出品を続ける。46年佐藤忠良とともにそれまでの作品を預けていた家が火災にあい、戦前までの作品を焼失。その喪失感と敗戦および敗戦直後の世相に感ずる屈辱感などを背景に、「レジスタンスという言葉の意味をより深く表現しようと思う私の姿であるかも知れない」(『孤独なる彫刻』、筑摩書房、1985年)と後に柳原が語る「犬の唄(シャンソン・ド・シャン)」を制作し、50年第14回新制作派協会展に出品。51年2月、戦後初めて欧州芸術の新動向を紹介するサロン・ド・メ東京展が開催され、その出品作に衝撃を受ける。同年板垣鷹穂笠置季男らとともに小野田セメント後援の日比谷公園野外彫刻展に際して結成された「白色セメント造型美術会」に参加し、野外彫刻を作成する機会を得る。53年末、版画家浜口陽三と同じ船で渡仏し、グラン・ショーミエールでエマニュエル・オリコストに師事。それまでに学んだ日本近代のアカデミックな彫刻を捨て、「平面的な自分の目を立体的な量の目にすること」(柳原義達「反省の歴史」『美術ジャーナル』24、1961年9月)に努力する。この間、パリに滞在していた建畠覚造向井良吉らと交遊。57年帰国。58年第1回高村光太郎賞を受賞。また第3回現代日本美術展に「座る(裸婦)」を出品して優秀賞を受賞。60年前後には、鉄くずを溶接した「蟻」や川崎市の向ケ丘遊園のモニュメント「フラワー・エンジェル」など、抽象彫刻も手がける。65年動物愛護協会から動物愛護のためのモニュメント制作を依頼され、烏や鳩をモティーフとした制作を始める。以後、これらのモティーフは柳原自身によって自画像と位置づけられ、自らの人生の足跡と重ねあわせた「道標」としてシリーズ化され、晩年まで繰り返し制作されることとなる。66年第7回現代日本美術展に「風と鴉」を出品。70年神戸須磨離宮公園第2回現代彫刻展に「道標・鴉」を出品し、兵庫県立近代美術館賞を受賞。同年菊池一雄佐藤忠良高田博厚舟越保武本郷新らとともに六彫展を結成し、第一回展を現代彫刻センターで開催した。74年「道標・鳩」で第5回中原悌二郎賞を受賞。83年神奈川県立近代美術館ほかで「柳原義達展」を開催。84年イタリア、フランス、イギリス、ドイツ、オランダを旅行。70年代80年代には、現代日本彫刻展(宇部市)、神戸須磨離宮公園現代彫刻展、彫刻の森美術館大賞展、中原悌二郎賞などの審査委員をつとめる。1993(平成5)年東京国立近代美術館、京都国立近代美術館で「柳原義達展」を開催。94年この展覧会によって第35回毎日芸術賞を受賞。95年宮城県美術館から全国8館を巡回する「道標-生のあかしを刻む 柳原義達展」を開催。99年三重県立美術館、神奈川県立近代美術館で「柳原義達デッサン展」を開催。2000年世田谷美術館で「卒寿記念 柳原義達展」が開催された。02年宇部市に柳原義達向井良吉作品展示コーナーが設置され、03年、作家自身から主要作品と関連資料の寄贈を受けて、三重県立美術館に柳原義達記念館が開設された。柳原は、日本近代彫刻のアカデミズムから発し、1950年代60年代に造形の世界を襲った抽象の嵐の中にあっても、形態の抽象化の本質を見極めて具象に留まり、「自然の動的組みたてを探る」ことに文学や絵では表現できない彫刻特有の性質を見出して、生に対する深い思索を立体に表す試みを続けた。68年日本大学芸術学部美術学科講師、70年同主任教授とり、80年に退任するまで長く後進の指導にあたり、学生時代からの友人である佐藤忠良舟越保武らとともに日本の具象彫刻界の精神的支柱として、指針を示し続けた。作品集に『柳原義達作品集』(現代彫刻センター、1981年)、『柳原義達作品集』(講談社、1987年)、『札幌芸術の森叢書 現代彫刻集 Ⅷ 柳原義達』(札幌芸術の森、1989年)、『柳原義達作品集』(三重県立美術館、2002年)、著書に『彫刻の技法』(美術出版社、1950年)、『ロダン』(ファブリ世界彫刻集5、平凡社、1971年)、『彫塑2 首と浮彫』(美術出版社、1975年)、美術論集『孤独なる彫刻』(筑摩書房、1985年)がある。

出 典:『日本美術年鑑』平成17年版(358-359頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「柳原義達」『日本美術年鑑』平成17年版(358-359頁)
例)「柳原義達 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28312.html(閲覧日 2024-04-20)

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