若林奮

没年月日:2003/10/10
分野:, (彫)

 彫刻家で、多摩美術大学教授の若林奮は、10月10日、胆管がんのため東京都杉並区の病院で死去した。享年67。1936(昭和11)年1月9日、東京府町田町原町田1番地に生まれる。55年4月、東京芸術大学美術学部彫刻科に入学。59年2月、みつぎ画廊(東京)で最初の個展を開催。同年3月同大学を卒業、基礎実技教室の副手となる(61年まで)。60年9月、第45回二科展に初入選。同展には、66年の第51回展まで毎回出品。67年10月、第2回現代日本彫刻展(宇部野外彫刻美術館)に「中に犬・飛び方」出品、神奈川県立近代美術館賞を受賞。翌年2月、第1回インド・トリエンナーレに「北方金属(2nd Stage)」等を出品。同年10月、第1回現代彫刻展(神戸須磨離宮公園)に「犬から出る水蒸気」を出品、神奈川県立近代美術館賞を受賞。69年5月、第9回現代日本美術展(東京都美術館)に「不透明・低空」を出品、東京国立近代美術館賞を受賞。70年9月、第2回現代彫刻展(神戸須磨離宮公園)に「多すぎるのか、少なすぎるのか?Ⅰ~Ⅷ」を出品、K氏賞受賞。71年、淀井彩子と結婚、同年吉増剛造の詩集『頭脳の塔』の挿絵を担当する。72年3月、エジプト、ギリシャを旅行。73年7月、神奈川県立近代美術館で「若林奮 デッサン・彫刻展」開催、59年から近作までを出品。同年10月、文化庁芸術家在外研修員としてパリに滞在、翌年11月帰国。75年4月、武蔵野美術大学助教授となる。同年10月、第6回現代日本彫刻展(宇部市)に「地表面の耐久性について」を出品、神奈川県立近代美術館賞を受賞。77年10月、第7回現代日本彫刻展に「スプリング蒐集改」を出品、東京都美術館賞を受賞。同年11月、個展「若林奮 彫刻展」(東京、雅陶堂ギャラリー)を開催。大地の堆積と地表の表面との関連を独自に増幅させた出品作のひとつ「100粒の雨滴」が、翌年の第9回中原悌二郎賞優秀賞を受賞する、また同個展において自然のなかの時間の連続と空間のなかでの存在という不連続な関係を追求した「振動尺試作」(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ)を発表した。80年6月、第39回ヴェネツィア・ビエンナーレに「100粒の雨滴 Ⅰ~Ⅲ」等を出品。82年2月、画文集『境川の氾濫』(雅陶ギャラリー発行)を刊行。同年11月、個展「若林奮 大気中の緑色に属するもの」(雅陶ギャラリー竹芝)を開催。84年3月、武蔵野美術大学教授を辞す。同年11月、個展「若林奮 所有・雰囲気・振動」(雅陶ギャラリー竹芝)、翌月にも個展「若林奮 所有・雰囲気・振動―森のはずれ」(東京、アキライケダギャラリー)開催。85年8月、財団法人高輪美術館(軽井沢)の庭園を制作。86年6月、第42回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。87年10月、東京国立近代美術館にて「若林奮」展を開催。70年代中頃からはじめられた「振動尺」のシリーズと近作の「所有・雰囲気・振動」のシリーズによって構成された内容であった(同展は、同年12月から翌年1月まで、京都国立近代美術館に巡回)。88年2月、北九州市立美術館にて「若林奮:1986.10―1988.2」展開催。1990(平成2)年2月、町田市立国際版画美術館にて「若林奮 版画・素描・彫刻展」開催。95年1月、東京国立近代美術館にて同館に作家自身より寄贈された水彩、素描類2627点のうち317点によって構成された「若林奮展―素描という出来事」開催。96年2月、足利市立美術館にて「煙と霧―若林奮展」を開催(同展は、翌年にかけて郡山市立美術館、山形美術館を巡回)。同年、「Daisy Ⅲ―2」によって第27回中原悌二郎賞を受賞。同年から、東京都日の出町につくられるゴミ処理場計画に反対する市民によるトラスト運動に連帯し、建設予定地に作品として「緑の森の一角獣座」を作庭した(同作品は、2000年10月東京都の強制収用により消滅)。97年2月、名古屋市美術館にて「若林奮 1989年以後」展開催(同展は、神奈川県立近代美術館、大原美術館、高知県立美術館を巡回)。同年11月、マンハイム美術館(ドイツ)にて「Isamu Wakabayashi」展開催(同展は、アーヘンのルードヴィヒ・フォーラムを巡回)。02年10月、豊田市美術館にて「若林奮展」開催。同展は、60年代の初期の彫刻、素描から近作までの作品によって構成された初めての、そして本格的な回顧展となり、これが評価され03年には芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。一方、99年から2003年まで、多摩美術大学教授として後進の指導にあたった。03年9月に開催した「飛葉と振動―2003」(東京、横田茂ギャラリー)が最後の個展となった。創作の初期から、鉄という素材に注目した作家であったが、時流に迎合することなく独特の造形、空間感覚と思想を深めており、その点は30代で神奈川県立近代美術館での個展開催にみられるようにはやくから評価されていた。その後も、単に造形の問題としてではなく、自然、時間等に思考を深め、その結晶が「振動尺」のシリーズであったといえる。さらに、自然の鼓動を見つめ、表現する姿勢は、たとえば晩年の日の出町におけるゴミ処理場建設計画反対への共感として、社会性をおびることにもなったが、その造形思考と思想は一貫して深められていたことをものがたる活動であった(用地の強制収用で未完に終わった作庭制作は、作家自身の死去後も、その遺志を継いだ関係者等によって現在もなおつづけられているという)。時代や社会に鋭く異をとなえつつ、自然を前に豊かな表現を獲得することができた作家として現代彫刻のなかでも独自の地位をしめるにいたったことは、高く評価できる。没後の05年9月に世田谷美術館において「若林奮 版画展―デッサンと彫刻の間」が開催された。

出 典:『日本美術年鑑』平成16年版(303-304頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「若林奮」が含まれます。
to page top