峯孝

没年月日:2003/04/10
分野:, (彫)
読み:みねたかし

 自由美術協会会員で、元武蔵野美術大学教授の彫刻家、峯孝は4月10日うっ血性心不全のため死去した。享年89。1913(大正2)年8月5日、京都市中京区麩屋町二条上ルに生まれる。生家が法衣商を営んでいたため、幼少時から寺などをよく訪れ、また、父、伯父共に日本画をよくしたことから、美術に接することの多い環境で育つ。26年私立富有小学校を卒業して京都市立美術工芸学校(現、私立日吉ケ丘高等学校美術工芸課程)の彫刻課に入学。同校在学中に木彫の基礎を習得し、3年次から5年次には塑像による人体彫刻を学ぶ。1931(昭和6)年同校を卒業し、上京して東京美術学校彫刻科に入学するが、体調を崩して京都へ帰り、松田尚之の主宰する東山研究所に通う。33年、フランスでブールデルに師事して帰国した清水多嘉示を知り、以後師事する。36年第11回国画会展に「T氏の妹」「友人像」および油彩画「山梨風景」で初入選。以後同展に出品を続ける。38年第3回京都市美術展に「N君の裸像」を出品して知事賞を受賞。39年建畠大夢の指導する彫刻研究団体、直土会に入る。40年紀元2600年奉祝展に「裸婦」を出品。41年第6回京都市美術展に「若い女」を出品し奨励賞を受賞。同年第1回直土会展に「プリマベーラ」を出品して奨励賞を受賞し、同会会員に推挙される。また、43年第6回新文展に「立像」を初出品。44年陸軍美術展に木下繁との共同制作による「市井に立つ」を出品。また同年、美術推進隊に加入させられ、鶴田吾郎を隊長とする一行とともに北海道に渡る。45年北海道砂川鉱山で「鉱夫の像」を制作。戦後は46年春、第1回日展に古典的写実に基づく「女ノ首」を出品し、以後48年まで官展に出品を続ける。49年に自由美術家協会会員となり、同年の第13回展に「裸婦」を出品する。51年7月新潟県佐渡郡相川および両津で佐渡文化会議主催の「峯孝作品展」を開催し、翌月佐渡郡河原田町公民館で峯孝作品展を開催。53年画家海老原喜之助の推薦により熊本の鶴屋デパートで峯孝彫刻個展を開催。54年博多の大丸デパートで峯孝個展を開催。同年毎日新聞主催の現代日本美術展第1回展に「若い音楽家の首」「青年像(習作)」を出品、以後隔年で行われる同展に64年まで出品を続ける。55年第3回日本国際美術展に「傾斜せるコンポジション」「試作(首)」を出品。58年より61年まで武蔵野美術学校講師を勤める。66年6月に渡欧しエジプト、ギリシャ、イタリア、フランスをめぐって同年末に帰国。滞欧中は主にギリシャとイタリアに滞在し、カララで大理石の「イカロス」を制作する。また、フランスではブールデルの生地を訪ねた。77年秋、日中友好美術訪中団の一員として訪中し、上海、北京、西安などをめぐる一方、洛陽、大同の史跡を見学する。80年4月武蔵野美術大学講師となり同年7月同学教授となる。82年日本美術家連盟理事となる。83年武蔵野美術大学美術資料図書館で「峯孝教授作品展」が開催される。日常生活に取材したブロンズによる人体像を好んで制作し、写実に基づく穏健な作風を示した。

出 典:『日本美術年鑑』平成16年版(297-298頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「峯孝」『日本美術年鑑』平成16年版(297-298頁)
例)「峯孝 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28270.html(閲覧日 2024-03-28)

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